投稿者:まなこ 投稿日:2017年 1月15日(日)22時42分58秒   通報
◆ 5 終末論に対して

【池田】 世の多くの識者は、いまのままでは、人類の未来が決して明るいものではないことを訴えています。たしかに、今日、世界の各地で頻発している災害や、それらを予測する科学的データを考察しますと、はたして人類が二十一世紀まで生き延びられるかどうかさえ疑問視せざるをえません。
この現代の終末観ともいうべきものは、かつて世界の歴史に登場した種々の終末論と同じ悲しいひびきをもっているようでも、本質的な相違を認めざるをえません。たとえば、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に流れる終末論は、世の終わりのとき人間は最終的な神の審判にかけられ、そのあと現在の秩序がまったく変わってしまうというものです。これには、まだ一種の楽天的目的論に傾く可能性も残されています。すなわち、キリスト教では、現実の衰亡を目の前にしながらも、なお未来への執念といったものが、人々の心をとらえています。この執念は、最後の審判を信じ続けるなかに現われており、しかも現に最後の審判では善良な人々は救われるとされています。つまり、かつての終末論では人間の良心の有効さがまだ信じられていました。
それに対し、今日の人類絶滅論には、未来への希望は一片たりとも残されていません。今日の終末論では、人間生命の善なる領域さえも認められず、人々は深い絶望感に陥っているようです。

【トインビー】 かつて旧世界の西端部、つまりヒンズー教や仏教が広まった地域より西方では、われわれが知っている形でのこの世界が、全能の神の定めにより、前もって決められ、まだ誰にも明かされていない未来のある日に、とつぜん終末を迎えるということが信じられてきました。神の意志によって終局がもたらされるというこの信仰は、ゾロアスター教徒の間に起源をもち、その後、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒の信ずるところとなったものです。
このように、われわれがこれまで経験してきたような形の人生が終局を迎えるのではないか、という展望に人類が直面したのはいまが初めてではないわけですが、それにしても、御指摘の通り、今日の状況はたしかに未曾有のものです。かつて人類は、人間の力ではどうにもならない自然の力によって、幾度か絶滅の脅威にさらされてきました。しかし、人類が、自分自身で行なったこと、ないしは行ない損ったことによって、直接その未来が決せられることを知ったのは、今度が初めてなわけです。

【池田】 たとえば、“ノアの箱舟”は、そうした意味で象徴性がありますね。当時の人々にとって、洪水はまったく自然そのものの脅威であり、人間の力の貧弱さを思い知らされるものだったのでしょう。襲いかかる巨大な自然の力のまえに、ただ平伏することしかできない人間の思いが、終末論に結びついていったとしても不思議ではありません。
ところが、今日の人類絶滅論が内包している終末観は、人間自身のもつ力に対する認識にかかわるものです。すでに現代人は、科学を武器として、地球全体さえ動かしかねない力をもっています。この力によって自分がつくった文明に裏切られ、まさにその文明によって死に追いつめられているという、想像だにしなかった事態に、現代人は当面しているわけです。
人類の終末をもたらすものが、自然災害などの人間以外のものであれば、一時は絶望の底に突き落とされても、自己の生存を危うくするものへの挑戦の意欲が再び湧いてくることでしょう。しかし、科学という自らの力を使ってもがけばもがくほど、死への行進を早めるのではないかという恐怖に、抜け道を与えるのは容易なわざではないと思います。
また、かつての終末論には、自然災害によって物質的な貧困に追い込まれ、死に絶える、という思想がありました。ところが、現代の人類絶滅論は、人口や食糧の問題もありますが、それよりも、物質的な豊かさのなかに死に絶えていくのではないかという恐怖をはらんでいます。現代人は、汚れた豊かさのなかで、新しい意味での飢餓、つまり精神的飢餓によって脅かされているわけです。

【トインビー】 まさにおっしゃる通りです。しかしながら、人類の生存を脅かしている現代の諸悪に対して、われわれは敗北主義的あるいは受動的であってはならず、また超然と無関心を決めこんでいてもなりません。これらの諸悪が、もしも人間に制御できない力から生じたものであったなら、たしかに現代の人間に残された道は、諦観や屈服だけしかないかもしれません。しかし、現代の諸悪は人間自身が招いたものであり、したがって、人間が自ら克服しなければならないものなのです。