投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月29日(月)10時18分7秒 返信・引用

仏教においては、絶対のものは「法」である。
日蓮大聖人も、つねに「経文どおり」の「如説修行」が必要なことを身をもって示された。
徹底して「法華経の行者」として振る舞われた。
ここに重大な意義があることを知らねばならない。

「法」を無視して「人」なかんずく自身を絶対化するのは、仏教では「摩」の所業とする。
(大聖人は「蓮盛抄」に、涅槃経の「若し仏の所説に順わざる者有らば当に知るべし是の人は是れ魔の眷属なり」〈御書一五二頁、大正十二巻〉との文を引いておられる)

大聖人は「四箇の格言」の一つとして、「禅天魔」と仰せである。
そのゆえは、禅宗は「経文」を無視し、自分の「心」を師とする。
正しい修行もなく、「心即仏」とする。
その傲りに「天魔」が入る。

大聖人が繰り返し教えられた「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(御書一〇二五頁等)の根本的な戒めを忘れると《暴徒》が始まる。
「天魔化」「悪魔化」が始まるのである。

御本仏の門下でありながら、末法の経文である御書を軽視ないし否定し、自己の感情や利害を根本とするのは「天魔」の行動といえよう。

ティリッヒ博士は一九六〇年(昭和三十五年)日本に来られた。
私がアメリカに「世界広宣流布」の第一歩をしるした年である。
博士は日本で仏教についても発言している。
その核心の一つは「仏教は生きている宗教なのですか」という問いかけであった。
形骸化した日本の既成仏教への鋭い問題提起であった。

日本では創価学会が、仏教を「社会に躍動する宗教」「現代世界の宗教」に活性化した歴史がある。
私どもの誉れである。
また、博士は、当時、西洋にもよく知られた「禅」が「自己絶対化の傲慢」におちいる危険をも、いち早く指摘している。

【アメリカSGI第一回総会 平成三年九月二十九日(大作全集七十八巻)】