投稿者:ジョーカー 投稿日:2017年 1月 4日(水)10時49分37秒   通報
光輝様

組織論においては、会長を中心にすることが当然ですが、信心の次元は、もっと奥が深いところにあります。信心をするということは、御本尊を中心に生きるということであり、広宣流布を推進するということです。つまり、特定の誰かに合わせるというよりも、一人立ち、自分自身が決意し祈り行動する。誰にも頼らない、一人立つ勇者の連帯こそが不二の同志です。

広宣流布の戦いは、役職や立場は関係ありません。一会員であろうとも、会長を凌駕する戦いをおこしている人はたくさんいます。常に問われているのは、実質的に、誰が広宣流布を推進しているのかということです。各々役割(使命)がある中で、広宣流布のために自分ができる何かをやること。あれもこれもではなく、これならできるというものを定め、一点突破する。それが組織を活性化させる。

誰かに合わせていれば楽であり、責任も問われない。だが、その先には本当の価値創造はありません。言われたことだけをこなす人間になってしまえば、新しい時代を創ることは到底できない。上意下達の打ち出し主義では、一人ひとりの力を引き出すことは出来ず、組織も疲弊する可能性が高まる。ましてや少子高齢化の現代では、一律の打ち出しではダメであり、個々の組織に合わせたオーダーメイド型が推奨される。

人は、余裕がなければ頭が回らなくなる。忙しい=戦いと勘違いすると、足元をすくわれる。相変わらず頑張っているのを惰性という。時間もエネルギーも有限であるが故に、やれることは限られる。その中で、自分は何をやるのかを自問すること。創価学会は、まじめな人間の集まりよりも、個性的で面白い人間の集まりでなければ魅力がなくなる。

創価三代は御本尊を中心としたからこそ、学会は大発展を遂げることができた。誰が指揮を執ろうとも、御本尊が中心でなくなれば、呼吸を合わせる価値はない。会長中心といっても、あくまでも会長が御本尊を中心としているかどうかである。決して無条件ではないことは、御書を拝せば明らかである。御本尊を中心とせず、己の感情や気分、己義を構えたのなら、用いてはならない。

日蓮仏法(人間主義)を正しく受け継ぎ、御本尊を中心とする不二の同志でなければ、広宣流布を推進することはできない。御本尊を中心とするということは、必ずそこには公平性と納得性がある。それがないということは、自分中心の感情であり気分、己義であるという証拠です。

仏意仏勅ということは、永遠に御本尊中心ということです。そこから外れたら邪教です。学会は、御本尊を中心とした、創価三代の指導を大事にする。指導を軽んじ、いたずらに、時代に迎合していくようでは危ない。どこまでも根本は、時代に合わせるのではなく、時代を創るのが、創価学会のありかたです。それが随自意の法華経であり、折伏精神です。