投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2016年12月23日(金)19時17分41秒   通報
「文藝春秋」2013 年 1 月号(「創刊 90 周年記念」新年特別号)
超大型企画 「激動の 90 年、歴史を動かした 90 人」後編

池田大作 作家、松本清張との対談

池田香峯子(夫人)

作家、松本清張氏の仲介により、池田大作創価学会会長と日本共産党の宮本顕治委員長の間にいわゆる「創共協定」が結ばれたのは昭和 49 年のことだった。実はそのきっかけは小誌の対談にあったという。香峯子夫人が初めて語る池田大作(84)の素顔――。

主人が作家の松本清張先生と初めてお会いしたのは、1968 年(昭和 43 年)に発行された、 貴誌「文藝春秋」2 月号の対談の折でした。 松本先生が58歳、主人が40歳。当時、主人の予定は、私が記していましたので、朝、出勤前に確認しますと、「きょうは楽しみだ」と言っていたことを思い出します。その日、誰も同行 せずに一人で対談場所に向かったことは、掲載されてから知りました。 主人が「運動不足で肥りすぎました」と言って、松本先生に腰の「万歩計」をお見せしたことまで書かれていました。何も自分から見せなくてもと苦笑しましたが、そういう開けっぴろげなところが江戸っ子なんですね。 対談のタイトルは「戦争と貧困はなくせるか」。戦争も貧困も人間を悲惨にする元凶であり、 その苦しみを次の世代に絶対に味わわせたくないとの思いが、二人には共通していたのでしょ う。 「庶民を上から見おろしちゃいけない。庶民のための社会であり、日本である。庶民のための世界だ。
そういう大きな波を作らなきゃいけない」など、率直に語っていました。 「わたしたちは傲慢と邪悪に対しては鋭く戦って来た。それに挑戦して来た人間ですから。その精神で一生戦う決心です」とも。 本当にこの言葉のままの人生を生きてきました。それは、そばで見てきた私が一番よくわかっているつもりです。
主人は昭和3年、東京の生まれです。あの戦争中は、兵隊にとられた4人の兄、さらに病弱な父に代わり、自分も肺病と闘いながら、一家を支えました。家は空襲で焼失です。 終戦後も長く消息不明だった長兄は、2年経って戦死公報が届きました。背中を震わせて涙する母の後ろ姿は、今もまぶたから離れないとい

います。 街は焼け野原と化し、世の指導層の言うことは、以前と180度違っていました。何を信じたらいいのか、多くの青年が苦しんでいる混乱の時代に、主人は戸田城聖先生に初めてお会いしました。 1947 年(昭和 22 年)、19 歳の夏です。 創価学会の創立者である牧口常三郎初代会長は戦時中、軍部、政府と対峠し73歳で獄死しています。お供した戸田第二代会長も、2 年間の投獄に屈しませんでした。 その一点で、若き主人は、「この人にはついていける」と直感したようです。

戸田先生が逝去され、その後継として主人が第三代の会長に就任したのは、昭和 35 年 5 月のことです。まだ 32 歳でした。新宿・信濃町にある学会本部の近所にお住まいで、まもなく総理になられる池田勇人先生にご挨拶に伺ったら、「この町の青年会の会長さんですか」と言われて大笑いになったくらい、若い会長でした。 主人は根っからの庶民です。気取らない、人間味そのものの庶民の世界が大好きです。今でも昼食をとりながら、テレビの「のど自慢」を見ると、「うまい!」とか「もう一歩だね」などと、 声援を送ったりしています。

1972 年には、イギリスの歴史家トインビー博士にお招きいただき、対談を始めました。ロンドンの赤煉瓦造りのアパートにあるご自宅で、ベロニカ夫人とご一緒に家族のように迎えてくださいました。 「さあ、人類の未来のために語り継ぎましょう!」と、83歳の博士が生き生きと言われ、40歳ほど若い主人と縦横無尽に対話を進めていかれました。 補聴器をつけられた博士が、時に聴き取りにくい表情をされると、絶妙の呼

吸で、夫人が耳 元で補われていた麗しい光景も忘れられません。 私は応接間の隅で、ただじっとお聴きしているだけでしたが、博士が大乗仏教の生命観に共感され、主人の実践に期待してくださっていることは、よく伝わってきました。 2 年越しの語らいは、対談集『21 世紀への対話』(上下巻)として、文藝春秋から発刊していただきました。
トインビー博士との対談集は、今、28 言語で出版され、世界中で幅広く愛 読されています。
よく「素顔のご主人は?」と聞かれますが、特別なことは何もありません。ありのままの誠実な人です。自分で風景を撮影する時も、たとえば富士山の前に電線が入っていたり、花の周りに排水溝などがあったりしても、少しも気にしないのです。あとで写真を見ると、それが不思議な味わいがあって、感心することがあります。自然であれ、人間であれ、出会い、縁するものは、すべて生かしていこうという心なのでしょうか。 「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である」とは、恩師から託された言葉です。 今年で結婚

60 年の年輪を重ねました。かつて肺を患い、「30 歳まで持たない」と言われた主人は、お陰さまで 85 歳を迎え、いよいよ青年とともに進むのだと元気です。 ラジオ体操を若い人たちと一緒にするのが、今も日課となっています。先般も、来日中のアフリカ 10 カ国の青年たちに会って激励しました。 トインビー博士に伺った座右の銘は、ラテン語で「ラボレムス」。「さあ、仕事を続けよう!」という言葉です。主人も同じ心意気で、一日また一日、仕事を続けています。