投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2016年12月23日(金)08時01分9秒   通報
【第1回】池田先生とオーストリアのウィーン
2009-7-3

信念の人に栄光は輝く

ベートーヴェンの家マリアは先ほどから、一人の来館者が気になっていた。東
洋の男性がベートーヴェンの楽譜の前で、じっと動こうとしない。ウィーン郊
外の「ハイリゲンシュタットの遺書の家」。ベートーヴェンの遺稿やピアノな
どが展示されている。質素な一軒家が記念館になっていて、マリアは、その管

理者である。世界から音楽ファンを自認する来館者があるが、『田園』の曲が
聞こえそうな散歩道を楽しんで、次の目的地に去っていく。だが、この男性は
──。かれこれ40分にもなろうか。板張りの床を踏みしめ、一室一室を丹念に

回る。マリアは記念館を30年以上も守ってきたが、ここまで真剣な人は珍しい
。鑑賞を終え、東洋人が近づいてきた。その感想を通訳が訳す。「死を間近に
感じるほどの苦悩があったからこそ、世界一級の作品が残せたんですね」そう

、その通り!この記念館は、それを感じてもらいたいの。難聴で自死までも考
えた楽聖の苦悩が宿った館である。マリアは急に、うれしくなった。奥からア
ルバムを取り出す。記念に、あなたの言葉をぜひ。さっとペンが走った。「正
義青年時代に憧れの大作曲家の家に来たるべートーベンと常に生き語りし想い
出を思い出しながらしばし、この地にたたずむダイサク・イケダ」マリアは、

通訳してもらい、うんうんと、うなずいている。ふと迷った顔になったが、遠
慮ぎみに申し出た。「ここで一緒に写真を撮っていただいても、よろしいでし
ょうか?」1981年(昭和56年)5月27日の水曜日である。以来、日本からの来
館者に写真を見せる。「あなたは、プレジデント・イケダを知っていますか」
なかには、「なぜ、学会を宣伝するんだい」と聞く人もいた。マリアは笑みを

たたえ、決まって、こう切り返す。「そう言うあなたは直接、お会いしたこと
がありますか?ベートーヴェンの心を深く知っていらっしゃる方だからですよ
」精鋭17人で出発オーストリアのウィーン。今日も、どこかでオペラの幕が開
き、舞踏会のステップが聞こえる。石畳の道や、運河に吹く風の中に、いつも

音符が踊っているような街である。ベートーヴェン。モーツァルト。ヨハン・
シュトラウス。ハイドン。シューベルト。ブラームス。そうそうたる顔ぶれが
ウィーンから世に出て行った。世界から音楽家の卵がやってくるが、現実は甘
くない。ベートーヴェンの記念館に行く前日のことである。新緑の森に、ひっ

そりと立つホテル・クライネーヒュッテでウィーン本部が結成された。祝賀の
演奏。一組の夫婦がフルートを手に立ち上がった。音楽学校で講師をしている
キヨシ・ツクイと、その妻でオーストリア人のエリカである。1966年(昭和41
年)1月。静岡で「五年会」の淵源となる大会に参加したツクイ。池田大作S

GI会長が演壇に立った。「学会は師子の団体である。まことの師子の後継者
に育っていただきたい」「男ならば広く世界を見よ、世界に羽ばたけと申し上
げたい」世界ヘ──。音楽好きな少年の針路が、大きく変わっていく。日本の

音楽学校を出て、船で横浜港からソ連のナホトカまで渡った。えんえんとシベ
リア鉄道に乗って、ウィーンまで1週間以上かかった。ビザなしでの新生活。
言葉が通じない。本場にいながら、音楽を学べない。日本に帰りたくても、も
う旅費もない。皿洗いをしながら屋根裏部屋でふんばった。77年、ドイツのオ

ーケストラに才能を見いだされ、音楽教育者の国家試験にも最優秀で合格した
。そんな折にSGI会長をウィーンに迎えたのである。演奏を終えたツクイが
、思い切って胸の内を明かした。「私は、オーストリア国籍を取りたいと思っ
ています」SGI会長は、その覚悟を見て取った。「オーストリアの土になる
。男らしい決意じゃないか」この日、小さな会議室に集まったメンバーを見渡

し、このように指導している。「きょうはオーストリアに世界一、小さな本部
を結成します」ウィーン大学に学ぶ女子学生。中南米出身の外交官。音楽を求
めて苦学する青年……。集ったのは、わずか17人。「少数精鋭でいい。とにか
く、いい人で。あせらずに、長い将来の基盤をつくっていこう」いかなる組織

でも、まず中軸をかためる。なによりも、その国土世間に応じた人材を育てる
。「真の信仰者ならば、文化を徹底的に愛しなさい!」ツクイの胸にずしりと
響いた。徹底的──仏法にも芸術の道にも、中途半端はない。信念の人に栄光
は輝く。ツクイは著名なフルート奏者に成長していく。現在は、オーストリア

SGIの書記長である。国立放送局などでも活躍。市立ブラームス音楽学院に
勤続30年。現在は副校長をしている。カレルギーの友人ウィーン国際空港。オ
ーストリア大使の小野寺龍二が到着ロビーでSGI会長を待ちうけていたのは
、92年(平成4年)6月9日の火曜日である。特に出迎えの予定はなかったは
ずだが……。「日程をうかがい、やってまいりました。ぜひ私も、明日の叙勲

式に出席させてください」オーストリア共和国から「学術・芸術最高勲位栄誉
章」が贈られることになっていた。小野寺は知っている。SGI会長は60年代
から、3人のオーストリア駐日大使と会見。世界への対話も、ウィーン大学出

身のクーデンホーフ・カレルギー伯爵から始まっている。「本当にご縁が深い
。両国の交流の恩人を、大使が、お祝いしないで、どうするのですか」小野寺
が、胸を張ってみせた。たしかにウィーンでは、こんな光景が見られる。赤レ

ンガのアパートで開かれた座談会。オーストリア人の男が初めて仏法の話を聞
くが、正直、東洋的な思想についていけない。しかし、、話題がSGI会長の
世界的な対話になると、ぴくんと顔を上げた。「クーデンホーフ・カレルギー

伯爵と会っているのかい?」伯爵は、第2次世界大戦前に、欧州統合の構想を
提唱した。ナチスにも、ひるまなかった闘士。オーストリアの誇りである。男
は一冊の写真集を手に取った。あつらえたばかりの老眼鏡をかけ、目を凝らす

。SGI会長との対談の場面。後日の伯爵の感想も。「この会談は私にとって
は、東京滞在中のもっとも楽しい時間の一つであった」男が初めて表情を崩し
た。「伯爵の本当のご友人ですね。それならば信頼できる」叙勲式を終えて翌
6月10日。叙勲式は、伝統ある文部省の建物で行われ、ホルンの音色が式典に
花を添えた。引き続き「賓客の間」で祝賀会になった。ひときわ目を引いたの

は、女優オーガスチン・エリザベートである。SGIメンバー。王宮劇場の専
属で舞台に立つ。大河ドラマのヒロイン役でも絶賛され、国民的な女優になっ
た。SGI会長が声をかけた。「ご活躍は、よくうかがっています。大女優に

お会いできて光栄です」長身のエリザペートが、華やかな笑みを浮かべる。そ
の心中を包みこむように、言葉を続けた。「でも女優である前に、立派な人間
として幸福になってください。それが何よりも大事です」エリザペートは、は
っとした。有名イコール幸せか。裕福イコール幸せか。つねに煩悶してきた。

誰もが、ちやほやしてくれるが、心の奥の葛藤まで知ろうとしない。SGI会
長のような人は初めてだった。式典を終えた夕刻。市立公園のヨハン・シュト
ラウス像の前で記念撮影会が開かれた。数人の少年少女と肩を組み、ゆっくり
像の周りを歩くSGI会長。輪の中の一人が、エリザベートの長女バレリーだ

った。バレリーは、後にアメリカ創価大学に進む。イギリスの大学を経て母国
に帰り、作家をめざしている。母のエリザベートは、オーストリアSGIの広
報部長になった。かつて古城だったオーストリア文化センターで開くコンサー
トに、音楽の都のスターと友情出演する。いま、ウィーンつ子たちは口々に言
う。「夢の競演が見たければ、あの森の近くのお城に行くといい」