投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2016年12月12日(月)22時04分49秒   通報
大阪のメンバーが、こう語ったことがある。「昭和32年の大阪事件、池田先生
の冤罪(=無実の罪)が晴れたのは、何と4年半ののち、昭和37年の1月25日でし
た。公判は84回にも及び、先生は、何度も大阪に来られ、裁判所の堅い木の椅
子に長時間、座られました。証言にも立たれました。

午前中に公判があり、午後にわたることもありました。普通であれば、神経を
すり減らし、打ちのめされ、倒れるほどの過酷さだといいます。
そんななか、夜には何ごともなかったかのように、生命力あふれるお姿で会合
に出られ、同志を励まされたのです-事情を知っていた人は、絶句する思いで
感動を抑えられなかったと語っていました」

名誉会長は、どのようななかでも「励まし」を送り続けた。どこからでも送り
続けた。それは若き日から一貫して、決して変わることはない。

平成12年(2000年)2月、香港を訪問していた名誉会長のもとに訃報が届いた。
広東外語外貿大学の名誉教授称号の授与式や文豪・金庸氏、世界的な画家の方
召慶女史との会見など、多忙を極めるなかだった。関西の牙城会委員長の訃報
だった。

◆証言(四ッ永裕子さん)

2月18日、関西の創価学園で体育の教諭をしていた夫の義昭は、いつものよう
に夕飯に帰ってきました。その日に届いたグラフSGIに、夫が参加した会合の
写真が載っており、3人の子どもたちに「ほら、パパが写ってるよ」と笑顔で話
しかけていました。

背広に着替え、その日は滋賀の会合に車で出かけました。その途中、不慮の事
故に遭ったのです。亡くなった夫とともに、未明に家に帰ってきました。
家には、創価学園の方々をはじめ多くの同志が待っていてくれました。

「追善の唱題をさせていただきました。香港で植樹をさせていただきます」。

池田先生のご伝言を池田尊弘副会長から伺いました。20日の葬儀には、香港の
池田先生からお歌と弔電をいただきました。翌21日には、夫の名をつけた木を
香港のメンバーが植樹している写真を届けていただきました。そして23日、
関西空港に帰着されたばかりの池田先生との懇談の席に招いていただいたのです。

その朝、数々の激励へのお礼の手紙を書いていました。6歳になる長男の秀樹
が起きてきて「何してるの?」。私は「池田先生にお手紙を書いているのよ」。「
ボクも書こうかな」そう言って便義に「せんせいいつもありがとうパパのぶんも
がんばります」。封筒の裏に「よつながひでき」と書きました。

懇談のメーン会場は3階でした。私は2階の部屋でした。部屋のドアが開きま
した。立ち上がると、池田先生と奥様が入って来られました。真っ直ぐ私の
方に来られました。「今日は、あなたに会うために来たんだよ」「負けるな、
断じて負けるな!」。心で受け止めました。奥様が先生に何かを手渡され
ました。

今朝、長男が書いた手紙でした。封筒の裏の「よつながひでき」の横に先生は
「いげだせんせい」と書かれました。奥様が、「”いげだ”になってしまって
いますよ」と言われたところ、「関西では、”いげだ”でいいんだ」と先生。

会場がパアッと明るくなりました。先生の深き深き慈愛を感じずにはいら
れませんでした。そして長男の秀樹に手紙をいただきました。
「大好きなお父さんは、君の心の中に生きている。大切な大切な、お父さんは

、お母さんの心の中に生きている。断じて負けるな!絶対に負けるな!お父さ
んは、御本尊様の中から、君を毎日、見ている。弟たちのことも、君がお父さ
んに代わって、お母さんと弟たちを守ってあげなさい」

そして、奥様が「お子さまたちに、かけてあげてください」と、キャンデーでつ
くった3本のレイとお菓子を三つ、手渡してくださいました。その夜、生まれ
て間もない三男の伸樹にもレイをかけてやりました。
前へ、前へ、ひたすら前へ-先生の一つひとつの激励が私たち一家の、未来へ
の希望となり、勇気となりました。感謝してもしつくせません。

翌年、長男の通う創価小学校に入学できた二男の直樹が、6月の「父の日」に池
田先生から、お歌をいただいて帰ってきました。

「父の日に 父なき子らよ 偉くなれ」