2016年12月10日 投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2016年12月10日(土)07時06分21秒 通報 池田大作その行動と軌跡第2回 若き指導者は勝った 2009-1-6 手塚治虫の回想 昭和二十四年(一九四九年)五月、池田大作青年は、雑誌「冒険少年」の編 集長に就任した。当時、十数誌の少年雑誌が創刊・復刊され、覇を競いはじ めていたところだった。売れっ子作家の仕事場には連日、各社の担当者が足を運 び、今か、今かと仕上がりを待ちかまえる。小松崎茂は、日本を代表するイ ラスト作家である。「冒険少年」にも、口絵や絵物語を描いていた。画家の 根元圭介が小松崎のもとに弟子入りしたのは昭和二十六年だった。思い出話を 、よく聞かされた。「戸田城聖という人が、何度か駒込のアトリエに足を運 んできた。見るからに利発そうな青年が一緒だった」アトリエは東京の巣鴨 駅と駒込駅の間の霊園の近くにあった。編集者のたまり場になっていて、食事 にあずかったり、ひたすらタバコを吹かしたり、活気を呈していた。「皆が 騒いでいる中で、じっと静かに絵の完成を待っている。知的で折り目正しい。 このハンサムな若者は、他の連中と、ちょっと違っていた」この「ハンサ ムな若者」こそ池田先生だった。すぐに、うち解けた。「おれは大好きだっ た。一時間も話こんだことがある。キリスト教と仏教のどちらがすぐれている か。論争したこともあったよ」 「冒険少年」は、当時、大変に注目された雑誌だった。画家の根本もバッ クナンバーを大切に保管していて、雑誌ブームを支えた仲間と今でも見せ合う ことがある。以前、漫画家・手塚治虫の知られざる一面が明かされたことが あった。昭和三十四年ごろである。東京・初台のスタジオで、原稿の締め 切りを終えた手塚が、アシスタントたちに語った。「みんな、以前『冒険少年 』という雑誌があったのを知ってたかい」首を横に振る一同。「それじゃあ 、見せてあげよう」二階から数冊の雑誌を抱えて降りてきた。目を輝かせな がら、そっとページを繰る。「この本から、何か特別な情熱みたいなものを 感じたよ」手塚は終戦後、大阪大学医学部に通うかたわら“赤本”と呼ばれ る単行本を描いて「天才漫画家」と注目されはじめていた。「雑誌の連載も 魅力的だった。でも、この『冒険少年』は、僕が上京したころには、もうなく なっていたんだ」まるで昨日のことのように、残念がる。「あのころは、 子供向けの雑誌が続々と創刊されていてね。『冒険少年』は、ぜひ描きたい雑 誌だった」 手塚治虫をして“この雑誌には、ぜひ描きたい”と言わしめた「冒険少年」 。その編集長こそ池田青年であった。編集手法に取り立てて秘密があったわ けではない。一軒一軒、地道に作家宅を訪れ、執筆陣を開拓していった。他の 雑誌と違ったところがあるとすれば、その情熱と誠実、なによりも限りない読 者への愛情をあげるほかない。日記に熱意を綴っている。「少年よ、日本 の少年よ。世界の少年達よ。願わくは、常に、一人も洩れなく明朗であれ、勇 敢であれ、天使の如くあれ」昭和二十五年の新年号には、詩人の西條八十、 探偵小説の横溝正史も筆を執ることになっていた。 Tweet