投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 3月 5日(木)17時59分25秒

・虹と創価家族様

師弟の宝冠(2007~2009年)に掲載のスピーチを見れば、悪しき幹部との戦いのために残されているものだと感じます。将来のための布石であり、そう読むのが弟子の姿勢というものではないでしょうか。どうしたらいいかわからなくなった時の道標として、後世の弟子のためのスピーチであったと思うのです。内容も厳しく、それでこそ学会を守っていける。本当に言うべきことを言っているのだと感じます。師弟の宝冠は何度も読み直したほうが良いと思います。内部の悪との闘争のすべてが詰まっている。
一度権力の味を知ってしまったら、手放せなくなるのが人間の性というものです。だから、庶民が大事なのです。何物にも染まっていないからこそ、正しく判断できる。幹部になればなるほど、つまらない野心に支配されるリスクが増す。最高幹部に魔が吹き荒れるのも当然であり、一番退転する可能性が高いポジションなのです。どんな立場であろうと、一学会員であることを忘れずに、一人の人を救う戦いを続けること。仏の使いをしなくなると、信心が淀んでいき、自分のエゴを中心とした信心へと堕してしまう。権力闘争、派閥争い等は、淀んだ信心の、なれの果てではないでしょうか。

・鉄砲玉様

焦りの一念こそが、まさに魔に食い破られた一念であると見ています。そもそも焦る必要など、どこにもないからです。理不尽にも創価学会を破門した極悪宗門という構図であり、創価学会は破門されても、広宣流布を実現させるために戦う正義の団体であり、主導権は学会にあるわけです。宗門が狂っただけであり、学会に非がないからこそ、仏意仏勅の団体として、堂々と広宣流布を進めてきたわけです。破門+宗門暴走という特殊事情を抱えている中での教義変更は、プラスよりもマイナス要素が多いということです。
安易に宗門教学、大御本尊から離れてしまうと、主導権を手放すことになります。その結果、仏敵にゲラゲラ笑いものにされる学会となってしまいました。これ、主導権を捨てたも同然です。「他教団にとやかく言われる筋合いはない」などという、低レベルな返ししか出来ないこと自体が、教義変更の失敗を意味していると私は考えます。戦いは準備で決まります。はじめから変更ありきの、準備不足であったことは明らかだと思います。実に情けない話です。
教義に手を出すのであれば、完璧に準備せよと申し上げたい。整合性や歴史の問題、仏敵への対応等も含め、あらゆる想定問答をして、教学部の太鼓判が押されるまで検討するのが筋というものです。それでも、教義変更は現実に行われてしまったのだから、その教義に合わせて、学会教学を構築していかなくてはならないのもまた事実です。それをこれからやろうとしているのが実情なのでしょう。とんでもない話です。学会は小さな教団ではありません。ミスは許されない問題であるのに、見切り発車とは恐れ入りました。