投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 3月 4日(水)20時44分36秒  

人生とは挑戦であり、挑戦とはトライ&エラーの繰り返しである。組織改革や悪との闘争は一筋縄ではいかない。変化を加えようとすると、必ず邪魔は入るし、失敗もする。思いもよらない事態にも遭遇するかもしれない。事を為すためにはそういった壁にぶつかることは当然であり、必要なのは「覚悟」である。

トライ&エラーを繰り返しながら、一つひとつを修正していく作業も必須である。多くの人は、挑戦はするが、ちょっと失敗すると、そこでやめてしまう。壁にぶつかってからが始まりであり、それをどのように越えるかが戦いなのである。そして日蓮仏法とは、どんな壁をも打ち破ることのできる法であり、その力を現実に湧現させることこそが信心ではないか。

他人は好き勝手言うもので、「そんなの無意味だよ」と、やる気を奪う発言をする人もいるでしょう。とくに失敗を避けてきた人や、無難な人生を歩んできた人は、事を為そうとする人間の足を引っ張りがちである。もしかしたらそれが普通なのかもしれない。多くの人は何かを諦めて生きている。幹部が腐敗しようと、組織がおかしかろうと、それらは見ないふりをしながら(関係ないものとしながら)真面目に担々と頑張る。どこかで折り合いをつけながら、何だかんだと意義付けし、自分を納得させる。そして、そういう生き方を無意識のうちに人々に押し付けてしまう。

普通と思われていることが、実は普通ではないのではないか。誰もが何か違うな、でも仕方がないよなと考えながら生きているのではないか。普通の中に狂気が潜み、人々を苦しめる根元があるのではないか。鎌倉時代は念仏が広宣流布されていた。念仏が人々の常識であり、「普通」だったわけです。それをひっくり返す戦いを開始したのが、我等が蓮祖大聖人ではないか。私ジョーカーもあえて言いましょう。「普通なんてくそくらえ」であると。

末法は転倒した社会であり、それは善人が虐げられ、悪人が跋扈する時代。その転倒した社会を引っくり返すのが創価学会の使命である。最高幹部の悪事は厳しく断罪されるのは当然であり、それでこそ正常である。そこをなあなあにして、誰も糾弾しなくなったらおしまいではないか。平和も人権も戦わなければ、主張しなければ勝ち取れない。この感覚が弱すぎるのが日本人であり、その弱さに悪は付け込んでくる。

悪と戦うといっても、武器がなければ戦いにならない。この掲示板は武器の提供であると私は考えています。そして武器とは何か。それは「情報」です。ラインでは手に入らない有益な情報を手に入れなければ、悪の存在すら認識できないレベルではないでしょうか。そういう意味で、玄人の世界であり、踏み込まないほうが幸せな人もいるでしょう。

悪を知らずして悪に勝つことはできない。悪を知るということは、見たくないものを見るということでもあります。出来れば目を背けたい問題であり、だからといって放置していいものでもない。誰かが向き合わなければならないことなのです。

武器を手にした一人ひとりが、現実にどのような行動をとるか。それを、それぞれの立場で考えていくことが大事になります。「誰かがやるだろう」という思考からの脱却、それはまさに「普通」からの脱却を意味するのである。