投稿者:一人のSGI 投稿日:2016年11月15日(火)22時58分44秒   通報
螺髪さん

論考、興味深く読ませていただき、少し感想を書かせていただきました。

>「4/12」の「空、仮、中の3諦に『人、法』を当てはめてみると『人』の側面は空、仮、であり、
『法』の側面は中」――は、今後の思索課題としてインプットしておきます。<

これに関しては「2種類の永遠の生命」と題してかなり前に投稿するつもりでしたが、なかなか時間が取れなくてまだ完成していません。でもいろいろと自分で勉強してみるとおもしろい題材です。
あと4件ほど他にも書きかけの論考があるのでどうにか今年中には総て投稿したいと考えてはいますが、、。

初めに、須田さんの考察から

>「(大聖人は)法華経二十八品を弘めたということでは全く無い。法華経二十八品を用いて南無妙法蓮華経を弘められたのである」<

この部分だけに関しては、私も全く同感です。

只、ここで気をつけなければいけないのは、南無妙法蓮華経であって妙法蓮華経とは言ってないという事です。
端的に言えば、法理だけを弘めたのではなく、衆生の仏界を顕現する為の縁となる仏の生命そのものを弘めたという事です。
この件に関しては、螺髪さんも私と同じ見解を持っていると思います。

5字の「妙法蓮華経」とは「法」を価値創造する智慧の別名です。9識心王真如の都です。
円融の三諦ですから、当然それは「法」それ自体も含みます。

そして、人がその智慧(報身)を以て、法を自在に駆使して生きていく(自受用)境涯を拓くのは、その智慧に南無(帰命ともいう)した時であり、その時その人は「自受用報身如来」「南無妙法蓮華経如来」という仏と顕れます。
これが7字の「南無妙法蓮華経」です。

つまり、仏の生命において、五字は七字の中に包含されています。

しかし、話にはまだ先があります。

翻って、仏は自分の生命を鑑み、ある真実を悟っています。
それは、その仏が顕した生命とは、自分が何か特別の人間になったのではなく、実は自分の中に、もともと持っていた「久遠元初の無始の古仏」としての生命の鋳型が凡夫の生命の上に滲み出てきた結果だという事です。
この真実を(人法一箇)と呼び、その「人」とは、別して言えば、大聖人です。

そして、総じて言えば、「本有(もともとある)の仏界を持った無始の古仏」が、御本尊に唱題する私達凡夫の身に顕現してきた時に感じる幸福感、安心感を享受できるその境涯そのものです。

大聖人が弘められたのは、「生身の仏身」であり、それが「南無妙法蓮華経如来」であり、大聖人の仏としての存在の全体です。
十の全ての界を本有の尊形に昇華された、大聖人の存在の全体です。
又、言葉を変えれば、隨縁真如の智(南無釈迦牟尼が表現)を以て、普遍真如の理(南無多宝如来が表現)を価値創造(法には善悪全て含まれるので)した「南無妙法蓮華経」のその体です。

私が須田さんの言葉の中で危惧した、御本尊の相貌の「釈迦・多宝の二仏は略されてもよい派生的なものである」という事について、もう少し触れてみます。
須田さんは、その根拠を以下の様におっしゃっています。

>釈迦・多宝の二仏を略した曼荼羅は現存する日蓮真筆の曼荼羅でも 5 幅を数え、その中には弘安年間に図顕された
ものもある(松本佐一郎『富士門徒の沿革と教義』227 ㌻)。日興の書写本尊にも二仏を略したものが存在する。<

確かに「南無妙法蓮華経 日蓮」に全てが含まれているというのは、正しいでしょう。
翻って大聖人の御在世の当時の様に、歩く御本尊(大聖人の事ですー言葉が悪いですか)がまだいらっしゃる間は、紙ふくの御本尊自体はまだ略御本尊(総てが書かれている訳ではない)でも、肝心の「南無妙法蓮華経 日蓮」が書かれていれば、それでよかったのかもしれません。

なぜならば、生身の大聖人が御本尊の総ての相貌を現実の存在として生きていられたからです。

逆に、歩く十界互具の当体の凡夫の私達に必要だったのは、『楊枝本尊』に顕されている様に「南無妙法蓮華経」と唱えて、自分の仏界の鏡を磨くことこそ大切であったでしょう。
人々は、現実に生きている菩薩仏日蓮その人に帰命するその信心によって、仏果を得られたのではないでしょうか。

しかし、大聖人は自分の滅後の事を考えておられたと思います。
滅後の凡夫に、自分のたましいを墨に染め流した「御本尊」を残すことにしたのです。
それには、自分の生命の全ての側面を完璧にかきあらわすことが必要だったでしょう。
こうして、御本尊は年月をかけて徐々に形を整えられてゆき、公安二年には、最後に提婆達多が書き認められて十界具足が整えられ、御本尊の完成をみたと私は思っています。

直弟子である日興上人については、今の正宗の法主が「大御本尊の内証を書き写す」と称して、独自の御本尊の相貌を作り出すのに対して、日興上人が御本尊を書写する時は、大聖人の直筆をそっくりそのまま(花押は別)書き写していたと読んだことがあります。

その中に略式の御本尊があるとすれば、それは大聖人を偲んでの事と私には思われます。
そういう略式の御本尊を公に信者に下付したとは思えませんが、いかがでしょう。

大聖人の仏法は、諸法即実相、実相即諸法です。
実相は「南無妙法蓮華経」、諸法は「十界互具の個々の生命」です。
そして実相は諸法の中にしか、存在しません。
その意味で諸法は余すところなく御本尊の相貌に表現されなければいけません。

更に、大聖人の仏法は而二不二であります。
総てが一つの側面に内包されていても(不二)そのもろもろの側面は現実に生きている現象の側面として余すところなく表現(而二)されなければいけません。

私が、危惧するのは「これに全てが含まれている」的な感覚は、ただ「法身」のみが真実であるとする「但中の理」に落ち込む危険があるという事です。
それは徐々に、そして確実に「桜梅桃李」であるはずの個々の生命への尊厳の矮小化の増長につながります。
私はその様な変化の一端を長い間、この組織の中に垣間見てきました。

螺髪さんの下記の表、すばらしいと思います。

「久遠元初の自受用報身如来」から、「末法の法華経、の行者のたましいである御本尊」へ、そして凡夫の即身成仏へと、重層的に仏界の蓮華の華が開くような感じですね。

「人法一箇の南無妙法蓮華経」は、

妙法蓮華経       五字の南無妙法蓮華経(法の側面)

南無妙法蓮華経(如来) 七字の南無妙法蓮華経(人の側面)    「五仏同道の南無妙法蓮華経」
南無妙法蓮華経(法の側面)
日蓮     (人の側面)                   「日蓮大聖人の御生命」
南無妙法蓮華経 日蓮(法の側面)
我等衆生      (人の側面)                「境地冥合する我等衆生」
然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ 全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を
生死一大事の血脈とは云うなり、 此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり、
生死一大事血脈抄   p1337