投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年11月15日(火)10時03分48秒   通報
創価学会は、永遠に御書根本(日蓮大聖人)である。この不変の原理は、創価三代であろうとなんであろうと絶対に変わるものではない。創価三代は、日蓮仏法を実践する団体においての師であり、根源の師である日蓮大聖人とは次元が異なる。創価三代のすごさは、日蓮仏法を身読し、実践したところにあり、だからこそ会員を指導(正しく善導できる)する資格がある。

日興遺誡置文(御書P1618)
「下劣の者為りと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とす可き事。」

創価学会において、誰が現実に三類の強敵と戦い、広宣流布を推進したのか。それは、まぎれもなく創価三代であり、日興上人の仰せの如く、仰いで師匠とすべき大指導者である。創価三代がどれほどすごいか、それは戦えば戦う程わかることです。一度、広宣流布の戦(大折伏)を起こしたのなら、言われなき非難中傷や、誤解や偏見にさらされます。また、自身の宿業もあふれ出てきます。命を削るような激闘に身を置いた時に、創価三代の指導がどれほど励みとなり、力となるか。それは、多くの会員が体感していることでしょう。

ある時池田先生は、「私の立場になったら、どんな幹部も三日と持たないよ」と言われた。言葉には言い表せないほどの激闘であることが窺える。自身が戦えば戦う程、すごさがわかると同時に、遠さもわかってくる。戦いを起こさなければ、池田先生を師匠と感じることもできないし、すごさもわからない。迫害され、いじめられ、また、自身の宿業と対峙していくなかで気づくことは何か。それは、創価三代はまぎれもなく御書根本であり、一番苦しんでいる人、戦っている人を念頭に置いて、指導されているということである。

また、教学も一通りすべて研鑽した私が言えることは、先生の指導は、御書(日蓮大聖人)から外れていることはないということです。だからこそ会員の心を打ち、納得性もある。創価三代のすごさを知ってからが、本当の仏道修行のはじまりといっても過言ではありません。だからといって、必要以上に特別視(崇拝)することはあってはならない。人間なのだから、判断を間違えたり、失敗することは当然あります。これまでも、多くの反省をされてきたことでしょう。

人間が無謬の存在となったら、それは神であり、カルトである。創価学会も気を付けなければ、いつでもカルト化する。尊敬が崇拝となり、美化され、神格化される。この危険性は常に潜んでいることは意識すべきである。私も創価三代を尊敬しておりますが、心の中では、牧口先生のことを「気難しいじいさん」、戸田先生は、「破天荒なおやじ」、池田先生のことは、「江戸っ子じいさん」と評しています。どこまでいっても人間ということです。

創価三代といっても、元々はどこにでもいる普通の人(凡人)たちである。その凡人が、法華経を身で読み、広宣流布にとって、決定的な仕事をした。どこにでもいる凡人が、身命を惜しまず戦い抜き、日蓮大聖人に連なる道を歩み抜いた。それはまさに奇跡であり、師弟不二の、最極の人間讃歌を体現したのです。それは、仰いで師匠とするに、いささかの躊躇も必要ないということです。

日蓮大聖人と、不二の道を歩んだ、創価三代の意志を継ぐことが、創価の師弟不二である。その先に、広宣流布もある。創価三代も我々も同じく、日蓮大聖人の弟子であり、門下です。その上に、創価の師弟も成り立っているのです。