投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年11月 4日(金)12時00分45秒   通報
なにがあろうとも、先生と自分という一点で戦うことは、一信仰者として最高峰の一念であり、すばらしいことである。組織悪であろうと、幹部が腐敗堕落しようとも、歯牙にもかけずに広宣流布のために戦う。これが創価学会員(池田門下)のベースである。

だが、創価学会のリーダーとしては、これだけでは不足である。リーダーは一念はもとより、問題解決能力を備えていなければならない。広宣流布は、仏(御本尊)の仕事であり、大地を的とするように、確実に実現されるもの。しかし、それを阻むものが「人災」です。組織悪も傲慢な幹部も人災(問題)であり、取り除く(解決)ことは可能である。否、取り除かなければならない。それが創価学会のリーダーの役割であるからだ。

会員の強盛な信心(先生と自分との一点)に甘え、解決できる人災を放置し、何も手を打たない。これ、無慈悲であり、人間主義の世界ではない。何か問題(人災)があると、しかめっ面をし、困った顔をしてしまう幹部(リーダー)では、会員は守れない。問題を指摘するほうが問題であると、言わんばかりの対応をする人もいる。これもまた、会員のやる気を削ぐ人災なのだ。

そもそもの前提として、人間主義の組織においては、理不尽(人災)なことはあってはならない。理不尽がまかり通ること自体が、異常事態である。異常が続けば、それが正常となり、歪んでいく。歪みを生むのはすべて人災であり、然るべき措置をすれば本来防げるもの。防げるものを防がないことは、会員を犠牲にすることと同意である。

また、問題解決ということを意識できないリーダーは、なにを相談しても、「なにがあろうと先生と自分だから」という言葉で処理してしまう傾向にある。これは厳しく言うと、問題解決への放棄である。つまり、不十分であり、現実的には何も変わらず、相談者は、「言っても無駄」と考える。

リーダーが問題解決のため、全力を尽くし、具体的に手を打つ。そこに感動が生まれ、会員の士気も高まる。それをせずに、「先生と自分だから」と指導しても、心には入らない。これが、人間学というものだ。現場の声を聴くとは、問題に対して、具体的に手を打つということに他ならない。聴いたつもりになっているリーダーでは、役割を果たしているとは言えない。

会員の強盛な信心は、いかなる理不尽(人災)にも耐えてくれます。しかしそれを放置すれば、生命力と福運が削られていき、組織は衰退する。人というのは、生命力と福運が溢れているところに集まるからだ。人災放置の組織は、生命力と福運がないからこそ歓喜もない。

会員の「おかしいではないか」という声は、人災発生のサインである。それに対して、「待ってました」と喜ぶのか、それとも「余計なことをいうな」と圧力をかけるのか。もしくは、「何があっても先生と自分だから」のみで済ましてしまうのか。私は、一念のみならず、問題(人災)から逃げず、然るべき手を打てるリーダーであってこそ、創価のリーダーであると考える。その真逆のリーダーがまだまだ多い。要は、創価学会はどのようなリーダーを育てようとしているのか。今、ここが問われている。