投稿者:ひかり(正義の師子同盟) 投稿日:2016年10月28日(金)01時23分8秒   通報
小学生のころだが、日本が戦争に巻き込まれかけたことが一度はあった。

「一度は」と言うのは、ひょっとしたら複数回あったかもしれないからである。

ある日、自衛隊員に嫁いだ母の友人が、電話してきた。

「夫が北海道に緊急招集された。戦争が起こるそうだ」

その夜遅く、激しい雷雨に跳ね起きた母は私を起こし、「爆撃かな?」

母は、幼児期の戦争体験の悪夢を思い出し、本心から怖がっていた。

その母は、3・11のあと、病院での治療が中断され、手遅れになり、他の多くの入院中の

親戚同様、亡くなった。(これも、震災関連死の一種だと思う)

母が生前によく戦争の話をしてくれた。

地域で一番最初に爆撃の犠牲になったのは、4才の女の子だったこと。

学校の上空にグラマンが飛んできた。

運動場を逃げるこどもたち。

隠れていた場所から、兄を追いかけて走ってきた妹が犠牲になった。

学校が犠牲者の安置所兼傷病兵の救護所になったこと。

血のにおい。死のにおい。

大黒柱を亡くした家庭の悲惨さ、地獄。

周囲が似た状況だから言えない苦労。

生きることだけに必死の日々。

だから、母は、戦争をものすごく憎んでいた。

創価学会は世界平和に真剣だから好き。胸を張っていた。

戦争は、権力と、どす黒い欲の一握りが、罪のない人々の命をゲームの駒のように利用して、

結局は何もかもを無駄な灰燼にしてしまう、最悪の愚挙であると、教えたのだった。

戦争の悲惨さを忘れないため、婦人部は証言集を何巻も編んだ。

「女たちの太平洋戦争展」のような貴重な遺品と写真の展示も行ってきた。

あの偉業を、全て昔日の幻にして、追憶の彼方に追いやるつもりなのだろうか?

本当に愚かな執行部であるよ。