投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 2月12日(木)19時45分38秒  

法華経の智慧 提婆達多品より
「なぜ、大勢の前で叱った(提婆達多を)かというと、そうしなければ皆がわからないからではないだろうか。提婆達多は、『皆の前で恥をかかされた』と思ったとされているが、そう感じること自体、もはや謙虚な『弟子』の心がなくなっていたことを示している。ちっぽけな自尊心のほうが、求道心よりも上回ってしまっていた。
 あるいは、釈尊は彼に、その前から、だれもいない所で、注意を与えていたのかもしれない。それでも変わらなかったので、皆のいる所で、叱ったのかもしれません。」
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池田先生が、最高幹部を皆の前で叱責する意義もここにあります。誰が悪い幹部なのかを明らかにするためと、本人に更生してもらいたいという想い。とくに最高幹部は、権限も有しており、会員に多大な影響を与えてしまう存在だからこそ厳しい。人は注意されなくなると、わからなくなるもので、また、注意されても、命の傾向性を変えるのは難しい。
師が弟子を貶めるためや、嫌がらせで叱責などするわけがなく、その真意を汲み取ることが大事であり、間違っても逆恨みなどしてはなりません。逆恨みすると、提婆達多の眷属となっていきます。

この掲示板においても、執行部や本部の悪事を明らかにし、叩きに叩きますが、職員はそれをどのようにとらえるかです。「生意気に幹部批判ばかりしやがって」と、とらえることもできますし、「本当その通りだ」と自身の信心を見直す機会にもなります。人は居心地のいい世界にいると、「まあ、これでいいか」と成長が止まってしまう傾向にあります。私の経験上、幹部は批判されているくらいが丁度いいと思います。いつの間にか、いい気になってしまうものだから。

幹部は叩かれているうちが華です。何も言われなくなったら、それは見放されたことを意味するのだから。言われているうちは、まだ期待されている証拠なのです。会員に見放されたら、どれだけみじめか、よくよく考えてもらいたいものです。
「愚痴や文句は福運を消す」との指導の下、多くの会員は、幹部に寛容であり、どんなことでも信心でとらえて頑張ってくれます。それをいいことに傲慢な幹部がのさばるようになったらマイナスであり、言うべきことを厳然と言える人材も必要です。

現場の一人ひとりの会員が、賢く、強くなっていかなくては、愚かな幹部の暴走を阻止することはできない。弱さは不幸であり、それは悪を助長させてしまう結果となる。まずは自分自身が賢く、強くなることが肝要であり、悪との闘争の第一歩となります。

戸田先生 師弟の宝冠VOL.1より
「師子になれ。本物の師子にならなければ、広宣流布はできない。そうでなければ、栄誉栄達のための幹部となってしまう。学会はつぶれてしまうぞ」

学会をつぶさない戦いが始まったのである。