投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年10月26日(水)08時57分6秒   通報
生命の実体を解明した哲学(大乗仏教)や、日蓮仏法を体系化した大論師たちの英知(論釈等)は、
決して一部の人のものではなく、全民衆のものとして高めていくべきです。

なぜかといえば、

生命哲学や信仰には国境はなく、人間の幸不幸の問題は、時代も国境も関係なく、
全生命に貫かれた普遍性のものだからです。

それが池田先生の訴えた二十一世紀は「生命の世紀」たらしめることだと考えます。

大聖人は

「日蓮はいずれの宗の元祖にもあらず、また末葉にもあらず」(一二三九頁)

と明確に断言しています。

つまり、大聖人は一宗一派の教団を立ち上げるという意識はまったくなかったということです。

大聖人の生き方を追ってみると、十六歳の時に、
日本天台宗の支部ともいえる清澄寺で入会し、仏法の基本を学びます。

その後、本部である比叡山に留学して、本格的に天台の仏教哲学体系を研鑽し、
釈尊の精神や天台教学の真意をつかみ取りました。

しかし、大聖人は本部である比叡山の群れから離れ、支部の清澄寺に帰って、

自身がつかんだ法華経の精神を宣言した途端に、迫害が起こり、支部(清澄寺)から「破門」――。

この一連の流れを見て疑問に思うことは、
なぜ大聖人は本部(比叡山)の群れから離れたのかということです。

それは伝教が法華経の精神を伝えるために開いた比叡山や、
京都、鎌倉における体たらく、死せる宗派や教団の現状を見た時に、

権力と癒着し、権威と化儀で凝り固まった教団を否定したのだと考えます。

上記の大聖人の言葉は、それを物語っているように思う。

事実において、その権威権力を一番嫌ったのが大聖人であったし、
それらと命を賭して戦ったのが大聖人でした。

この世の一切の現象に、究極の真理の輝きを認め、
それを自在の智慧で生かそうとする釈尊の法華経は、

天台によって仏教史の表舞台に登場しましたが、
長い間、一部のエリート学僧の間で議論されるにとどまっていました。

しかし、その限界を打ち破る法華経信仰が、大聖人によって、再び「民衆仏法」として蘇ったのです。