投稿者:無冠 投稿日:2016年10月22日(土)22時20分0秒   通報
全集未収録の特別文化講座『キュリー夫人を語る』を掲示します。

2008-2-8 創価女子短期大学 特別文化講座『キュリー夫人を語る』③

 ● 不遇な環境で地道な労作業
 一、ラジウムを取り出すためには、本来、大きな実験室が必要でした。しかし、キュリー夫妻に、満足な設備はありません。パリ大学にある多くの建物の一つを貸してもらおうと奔走しましたが、結局、認められませんでした。
 やむなく二人は、物理化学学校の医学生の解剖室だったという、物置小屋のような建物を借りることにしたのです。部屋には何の装置もなく、使い古したテーブルと、あまり役に立たないストーブ、そして黒板があるだけでした。
 雨が降れば雨漏りした。冬は身を切るような寒さに悩まされた。夏は焼けるような暑さ。化学処理で生じた有毒ガスを排気する換気装置もありませんでした。
 「馬小屋ともジャガイモ貯蔵庫ともつかないもの」と形容される倉庫です。
 ラジウムが含まれていると思われる鉱物の調達にも苦労しました。さまざまに手を尽くして、やっとのことで、オーストリアの政府が、工業で使った残りかす1トンを無償で提供してくれることになりました。
 科学の歴史を劇的に変えた大発見も、その過程は、あまりにも地道な、単調な作業の繰り返しでした。
 大量の鉱物を大きな容器に入れて、ぐつぐつと煮る。化学処理を行う。それを何度も何度も、繰り返すのです。重い容器を運んだり、何時間も大きな鉄の棒でかき混ぜ続けたり、大変な肉体労働の連続です。一日の終わりには疲労のあまり倒れそうになりました。

ラジウム発見の苦闘
私はあきらめない!
 どんな場所でも立派な仕事ができる

 ● 自分との戦い
 一、マリーは、こう書いています。
 「実験室における偉大な科学者の生活というものは、多くの人が想像しているような、なまやさしい牧歌的なものではありません。それは物にたいする、周囲にたいする、とくに自己にたいするねばりづよいたたかいであります」(前掲、渡辺慧訳)
 ”闘い続ける人”の叫びです。さらにまた、マリーは語っております。
 「みのりの多い多忙の日々の間に、なにをやってもうまくいかない不安な日々がはいりこんできます。そういう日には研究対象そのものが敵対心をいだいているかとさえ思われてきます。こういうときこそ、じぶんの気の弱さや落胆とたたかわなければならないのです」(同)
 この言葉は、科学研究だけでなく、人生の万般に通ずる大切な哲学といってもよいでしょう。
 「なにをやってもうまくいかない」──ラジウムの抽出に挑戦する作業は、ときとして絶望的に思えました。そもそも、こうした作業は化学者の領域であり、ピエールやマリーのような物理学者が得意とすることではなかったのです。
 強い信念を持ったピエールですら、果てしない戦いに疲れ果てて、あきらめかけました。
 この障害を乗り越えるのは難しい。もっと、将来、条件がよくなってから再挑戦したほうがいいのでは?
 ぼろぼろになって研究を続ける妻のことを気遣い、ピエールは、ひとたびの「休戦」を勧告しました。

 ● 志ある人は強い
 一、しかし、マリーはあきらめませんでした。彼女は、「あきらめる」ということを知らなかったのです。
 「ラジウムは必ずある! どんな苦労を払ってでも、必ず取り出してみせる!」
 いざというとき、志の定まった女性というのは本当に強い。
 マリーは、「どんなに不適当な場所にいても、やり方しだいで、いくらでもりっばな仕事ができるものだ」(前掲、木村彰一訳)と自伝に綴っています。
 今、短大に学ぶ皆さんは、自分を鍛える「青春という闘い」の真っ只中にいます。
 また、卒業した皆さんのなかには、描いていた理想と違う、不本意な環境で働いたり、厳しい現実の中で生きている人がいるかもしれない。
 大事なことは、強い自分になることです。「自分しだい」で、新たな道を開くこともできる。必ず立派に成長できる。
 「大変だった。でも、私は勝った!」と、笑顔で後輩に語れる、強い朗らかな皆さん方になってほしいと、私は願っています。

    わが母校
     見つめて勝ちゆけ
    わが友と

忍耐と自信を持て 道は必ず開ける!

    青春乃(の)
     英智の朝日は
       昇りける
     嵐の時にも
      笑顔たたえて

 嵐のような環境にあっても、笑顔を忘れない。その人は、人間としての勝利者です。
 わが家のことで恐縮ですが、私の妻は、いかなる試練の時も、笑顔をたやさず、共に進んでくれました。私は妻への感謝を込めて「微笑み賞」を贈りたいと話したことがあります。
 どうか、皆さんも、どんな時も朗らかな笑顔を輝かせていける、強き女性になってください。

キュリー夫人 最も苦労した時代が最も幸福な時代でした

 ● 価値ある仕事は地道な積み重ね
 一、ラジウムを取り出そうとする、キュリー夫妻の労作業は続きました。実に4年間、二人は実験室での苦しい闘いに没頭したのです。
 そして、ついに1902年、二人はラジウム塩の抽出に成功します。世界初の快挙でした。
 取り出した量は、わずか「0・1グラム」です。数トンの鉱物から、たったの0・1グラム──。
 マリーは後に回想しています。
 この苦労に満ちた日々こそが、「もっともすばらしい、もっとも幸福な時代」「ふたりがともにすごした生涯の英雄時代」だったと(木村彰一訳「キュリー自伝」、『人生の名著8』所収、大和書房)。 意まれた環境だからといって、偉業が達成できるわけではない。また、一見、華々しく見える活躍が、必ずしも大きな価値を持っているわけでもない。
 本当に価値のある仕事、歴史に残る事業というものは、目立たない、地道な積み重ねである場合が多いのです。
 仕事は戦いです。また、自分自身の一念しだいで、仕事を通して、自分を磨き、強めていくこともできる。
 戸田先生の会社で働いていた時、先生は私たちに、こう語られたことがあります。
 「仕事に出かけるときは『行ってまいります』というけれども、仕事は戦いなんだから『戦いに行ってまいります』というべきだ」と。
 厳しき現実社会で戦う人間が、根本に持つべき心構えを教えてくださった。
 社会は、思うようにいかない苦闘の連続です。希望通りの進路にならなかった場合もある。しかし、そうしたことで大切な自分を見失ってはならない。
 若き日にマリーは、兄に宛てて次のような手紙を書いています。
 「人生は、私たちの生涯にとっても生やさしいものではないようね。
 でも、それが何だというのでしょう。
 私たちは自身に忍耐力を、中でも自信を持たねばなりません。
 私たちが何かについて才能に恵まれていることと、どんな犠牲を払ってもそれが実現されねばならないこととを私たちは信じるべきです。
 多分、ほとんど予想もしない瞬間にすべてがうまくいくことになるのでしょう」(桜井邦朋著『マリー・キュリー』地人書館)
 私はこのマリー・キュリーの言葉を、健気な短大生の皆さんに贈りたい。
 特に、これから社会に旅立つ、卒業生の皆さんに贈りたいのです。
 何があっても、忍耐と自信をもって、強く前進しつづけることだ。「進む」なかで、「動く」なかで、自分にしかない才能が見つかり、自分にしか果たすことのできない使命の道を開くことができるのです。

 ● 悲観主義でなく楽観主義でいけ
 一、フランスの故・ポエール上院議長は、私が20年以上にわたって、お嬢さんやお孫さんも含めて、家族ぐるみで深く親交を結んだ方です。
 第2次世界大戦で、命がけでレジスタンス運動を戦い抜いた正義の闘士です。
 その議長が政治家を目指したきっかけは、戦火の中だったという。
 議長は、防空壕を掘って、自分は死んでもいいから一人でも多くの人を救いたいと救助に当たっていた。
 その時、「自分には人々を安心させる力がある」と気づき、政治家への道が始まったと回想しておられました。
 ポエール議長は青年に対し、こう語られています。
 「将来を信ずることです。勇気と希望を失わないことです。未来へ参加していくことです。青年なくして未来はありえない」
 「絶対に悲観主義ではいけない。楽観主義でいくべきです。物事は、いろいろと変化していくものですから」
 「また何かやろうとするときは、自分自身を信じることです」
 幸福は、どこにあるのか。
 それはわが生命の充実感の中にある。そしてこの充実感は、労苦を勝ち越える挑戦から得られる。
 人知れぬ地道な、信念に徹する闘争のなかに、何ものにも侵されない、人生の喜びと悔いなき満足が生まれるのです。

 ● 「ラジウムは万人のもの」
 一、1903年、ピエールとマリーの二人は、放射線研究の先駆者であるアンリ・ベックレルとともにノーベル物理学賞を受賞します。
 ラジウムは、にわかに世界の注目を集めました。ガンの治療などに効果があることが明らかになってきたからです。
 今日、ガンに対して用いられる放射線治療は、「キュリー夫妻のラジウム発見に始まる」と言われています。
 世界のさまざまな国が、ラジウムを求め始めました。しかし、ラジウムを抽出する技術を知っているのは、キュリー夫妻だけです。
 この技術の特許をとれば、莫大な財産を築くことができる。子どもたちの将来の生活も保障してあげられる。何よりも、立派な実験室を持って、思う存分、研究に精を出せる──。
 あるときピエールが、この考えについて、マリーに尋ねました。マリーは、こう答えた。
 「それはいけません。それでは、科学的精神に反することになるでしょう」(エーヴ・キュリー著、川口篤ほか訳『キュリー夫人伝』白水社)
 「ラジウムは病人を治療するのに役だつでしょう……。けれど、それから利益を引き出すなんてことは、わたしできないと思います」(同)
 ピエールも、マリーの意見に同意しました。
 のちにマリーは、特許をとれば大金持ちになれたのにと話す人に対し、毅然と答えています。
 「誰もラジウムでお金持ちになってはいけません。あれは元素です。ですから万人のものです」(オルギェルト・ヴォウチェク著、小原いせ子訳『キュリー夫人』恒文社)
 二人は、健康を害し、寿命を縮め、筆舌に尽くせぬ苦闘を通して得た技術を、世界に、人類に、未来に捧げました。
 その生き方は、仏法で説く「菩薩道」の人生と深く一致しています。

勇気は絶望を照らす光
夫ピエールを失った悲しみの底で 何があろうと私は生き抜く!

 ● 突然の別れ
 一、ラジウムの発見、ノーベル賞受賞といった偉大な功績が認められ、1904年、ピエールはパリ大学の教授に就任します。
 マリーも、夫の研究室の主任となりました。さらに翌年、ピエールは科学学士院の会員に選ばれました。
 〈創立者は1989年6月、フランス学士院で「東西における芸術と精神性」と題して講演を行い、「この講演は偉大なる一編の詩であり、生命の真髄への探究に捧げられた芸術です」(同学士院芸術アカデミーのランドフスキー終身事務総長)等の大きな反響が寄せられた〉
 ピエールがパリ大学の教授となった年には、二女のエーヴが生まれています。キュリー夫妻は、人生の幸福と、研究の充実の真っ只中にありました。
 1906年の4月。ピエールとマリーは、二人の娘と一緒に、田園風景を楽しみました。
 久しぶりの休日。自転車に乗ったり、牧場に寝ころんだり、美しい森を散歩したりして、家族で和やかな一日を過ごしたのです。
 ピエールは、元気に跳びはねる、かわいい娘たちを、そして最愛のマリーを、幸せそうに見つめていました。
 二人の人生が、本格的な開花の季節を迎えようとしている。そう思えてならない、春の美しい日々でした。

誓いを果たす人生を

 その数日後、4月19日──。
 突然の悲劇がキュリー家を襲いました。
 ピエールがパリの街で、馬車にひかれてしまったのです。ピエールは亡くなりました。1カ月後に、47歳の誕生日を迎えるところでした。
 「ピエールが死んだ?……死んだ?……ほんとうに死んだの?」(エーヴ・キュリー著、河野万里子訳『キュリー夫人伝』白水社)
 マリーは、「ピエールが死んだ」という言葉の意味がわかりませんでした。しばらくは、悲しみを感じることすらできませんでした。心を失ったロボットのようになってしまいました。
 しかしマリーは、それでも生き抜かなければならなかった。このとき38歳。8歳のイレーヌと、1歳半にも満たないエーヴの、二人の娘が残されました。
 絶望に沈むマリーの脳裏に、ある日の光景が蘇りました。
 その日、肉体的にも、精神的にも苦しい実験作業を続けていたなかで、ふとピエールが、「それにしても、きついな、われわれが選んだ人生は」と漏らしました(同)。
 最悪の事態があるかもしれない。もしどちらかが死んだら、残った一人は生きていけない。そうでしょ?──と、マリーは聞いた。
 ところがピエールは、厳としてこう言ったのです。
 「それはちがう。なにがあろうと、たとえ魂のぬけがらのようになろうと、研究は、つづけなくてはならない」(同)と。
 何があろうと、たとえ一人になったとしても、生きて生きて生き抜いて、二人の使命を完遂する──これが二人の誓いでした。
 悲哀の底にいるマリーを、この「誓い」が支えてくれたのです。
 彼女の生涯には、多くの苦難が襲いかかりました。
 しかしそれらが束になってかかってきても、彼女の「誓い」を破壊することはできなかった。
 「誓い」を捨てることは、「自分」を捨てることであり、“戦友”である夫を裏切ることでした。それは魂の死を意味する。
 ヴィクトル・ユゴーは綴りました。
 「死ぬのはなんでもない。生きていないことが恐ろしいのだ」(辻昶訳『レ・ミゼラブル 3』潮出版社)
 残酷なまでの試練を経て、マリーの誓いは清められ、鍛えられ、高められていきました。
 誓いを果たすことが彼女の人生になった。彼女の生命は、まさに「使命」そのものと化した。
 苦しみに鍛えられることによって彼女は、永遠に朽ちない「真金」の人となったのです。師であり同志であったピエールと「不二」になったともいえるでしょう。
 また、計り知れない苦難に遭いながらも、人々のために生き抜かんとする人生は、自らを燃焼させて万物を照らしゆく太陽のごとく、宇宙の本源的な慈悲の法則に合致しゆくといってもよい。

 ● 「再生」の第一声
 一、やがて、パリ大学は、亡きピエールが受け持っていた講座をマリーに引き継いでもらう決定をしました。これは重大な出来事でした。歴史上初めて、学問の最高峰・パリ大学で、女性が講義を受け持つのです。
 1906年11月5日、マリーは教壇に立ちました。
 パリ大学で女性が初めて講義をする! いったい何を話すのか? しかもそれは、あのマリー・キュリーだ!
 多くの群衆、記者、カメラマン、有名人が教室に集まりました。
 固唾をのんで見守る人々。まっすぐに前を見つめるマリー──。
 彼女は、何の前置きもなく、静かに話し始めました。
 「この十年のあいだに成しとげられた物理学の進歩について、考えてみますと、電気と物質に関する概念の変化には、驚かされます……」(前掲、河野万里子訳)
 それは、夫ピエールが“最後の講義”を結んだ言葉でした。マリーは、まさしくピエールが講義を終えたところから、講義を始めたのです。
 最愛の夫であり、学問探究の不二の同志であった夫の魂を継いで、勇敢に生きゆく「再生」の第一声を、凛然と発したのです。
 マリー・キュリーの教え子の一人は、当時の彼女の姿を、次のように描いています。
 「万人に近寄りがたくなり、自らに課した超人的な任務に向かってひたすら緊張している、この時ほど彼女が偉大であったことはない」と(ウージェニィ・コットン著、杉捷夫訳『キュリー家の人々』岩波新書)。
 私たち夫婦が、忘れ得ぬ出会いを結んだ方々のなかにも、夫に先立たれた女性がいました。
 インドのソニア・ガンジー女史。フィリピンのコラソン・アキノ元大統領。法華経研究のヴォロビヨヴァ=デシャトフスカヤ博士。香港の方召?(ほうしょうりん)画伯。
 中国の周恩来総理夫人である、鄧穎超(とうえいちょう)女史もそうでした。 鄧女史は、ひとりの女性を次のように励ましています。
 「私は、女性が泣くのが一番、きらいです。泣いてどうなるの?
 泣いて、自分の運命が変えられますか。女性は自立しなければなりません。向上し、強くなり、戦わなければなりません。泣き虫はバカにされるだけです。
 私は、恩来同志が死んで、この上なく悲しく、三回だけ泣きました。しかし、泣いても、彼は生き返りません。私は、悲しみを強くはねのけて、更に強く生きていかねばなりません」
 そして、夫の周総理の精神を受け継ぎ、それまで以上に、大中国の発展のために、力を尽くして戦っていかれたのです。
 鄧女史が、逝去の2週間前に残した言葉は、
「生き抜き、学び抜き、革命をやり遂げる。命ある限り、私は戦いをやめない」でした。
 私は折に触れて、「この人ありて、周総理の勝利はあったのだ!」と、偉大な女史の勝利の一生を、最大に讃えてまいりました。
 夫を亡くしても、その悲しみに負けず、勇気をもって生き抜く女性は、「生命の女王」の境涯を悠然と開く人です。
 そして「幸福の博士」として、あとに続く人々の希望となり、模範となって光り輝いていくのです。

 ● 「必ず晴れる日は来る!」
 一、マリーの偉大さ、それは、最大の悲劇があったにもかかわらず、その苦悩のなかで、大いなる使命を果たし抜いていったところにあるといってよいでしょう。
 彼女は、それまで夫と二人で分かち合っていた重荷を、一人で担って歩んでいく決意をしました。家族を自分の収入で養い、子どもを育て上げるとともに、夫と切り開いた学問分野を発展させ、さらに、後輩たちを誠心誠意、育成していったのです。
 ピエールの死から8年後、第1次世界大戦の戦火が迫るなか、マリーは娘のイレーヌにこう書き送っています。
 「わたしたちには大きな勇気が必要です。そして、その勇気をもつことができるようにと望んでいます。
 悪い天気のあとにはかならず晴れた日がくるという確信を堅くもっていなければなりません。愛する娘たち、わたしはその希望をいだいてあなたがたを強く抱き締めます」(前掲、川口篤ほか訳)
 この言葉こそ、波乱の人生を生きたマリーの一つの結論でした。
 「生きる」とは「闘う」ことです。
 そのために必要なのは「勇気」です。
 勇気は逆境を切り開く宝剣です。限界の壁を打ち砕く金剛の槌です。絶望の暗黒を照らす不滅の光です。
 私も妻も「勇気」の二字で、ありとあらゆる中傷・迫害と戦いました。そして「勇気」の二字で、あらゆる苦難に勝ちました。
 私たち夫婦は、わが最愛の娘である皆さん方に、この「勇気の冠」を譲り託したいのです。

    勇敢な
     魂いだける
      白鳥会
     悲しみ乗りこえ
        常に朝日が

女性は平和へ導く教育者
?

 ● 未来の建設者
 一、イレーヌは、「この戦いにおいて、女性は選ばれた地位を占める。彼女たちは教育者だから」(前掲、杉捷夫訳)と述べています。
 女性であること。それは、社会を平和ヘリードする大きな使命をおびた「選ばれた教育者」であるということなのです。
 「母性は本来の教育者であり、未来に於ける理想社会の建設者」であるとは、創価の師父・牧口先生の叫びでありました。

 一、マリーヘの風圧は、学士院選挙の落選にとどまりませんでした。
 マリー・キュリーが夫に先立たれた気の毒な境遇と見られていた間は、世間は同情的でした。
 しかし、一個の人間として屹立し、堂々たる実力を発揮していくと、容赦なく攻撃を開始したのです。
 その根っこには、陰湿な「嫉妬」がありました。
 外国人であり、女性でありながら、誰にも真似のできないような業績を成し遂げ、海外から数々の賞讃を受けている──その確固たる偉業に対する根深い妬みが渦を巻いていたのです。
 マリーのプライバシーを非道に侵害し、事実無根のウソを交えて、大衆の好奇心に媚びへつらうような悪辣な記事が、次々と書き立てられました。中には、ピエールは事故死したのではなく、マリーのせいで自殺したのだと、卑劣極まることを言う人間すら現れました。
 「自由の名のもとに放縦が許される」という言論の暴力が、人権を蹂躙して憚らなかったのです。

 ● 逆境の時こそ真の友がわかる
 一、亡夫ピエールの兄ジャックは、ウソで固められた、でっち上げの報道に対して、「何と下賎で、何と不快で、何と卑劣なことか!」(前掲、田中京子訳)と激怒しました。
 そして自らペンを執り、マリーを賞讃し、彼女の正義を堂々と証明する文章を新聞社に送ったのです。
 「彼女に対する下劣な記事がどれだけわたしの憤激を煽り立てたか言うまでもない」(同)
 「キュリー家の名において、義理の妹が、科学のみならずさまざまな面で卓越していたように、その私生活においても常に完璧で申し分ないと言うことは大いに役に立つものと思う」(同)
 逆境の時こそ真実の友が明らかになります。
 多くの友人たちは、マリーを励まし、変わらぬ友情と真心を伝えてきました。
 20世紀を代表する大物理学者アインシュタイン博士も、その一人です。
 博士は、マリーの「精神とエネルギーと正直さ」を、心を込めて賞讃しながら、こう書き送っています。
 「野次馬が大胆にもあなたに反抗する、そのやり口が頭にきたのでこの感情を断然吐露せずにはいられません」(同)
 「野次馬がいつまでもあなたのことにかかずりあっているのなら、もう戯言を読むのはおやめなさい」(同)
 あのポーリング博士が、平和への信念の行動のゆえに事実無根の誹謗を浴びせられた時も、アインシュタイン博士は厳然と擁護しております。
 偉大であり、正義であるがゆえに、嫉妬され、悪口される。そして、それを耐え抜いて、勝ち越えた人が、永遠不滅の勝利と栄光に包まれていくのです。
 仏法では、「賢聖(けんしょう)は罵詈(めり)して試みるなるべし」と説かれております。悪口罵詈などに負けてはいけない。

④に続く