投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2016年10月 8日(土)17時40分32秒   通報
初代北海道女子部長 嵐慧子さん

”妙法のジャンヌ・ダーク”

その名は「嵐桜」

雪に耐え、寒風に耐え、春になると北海道文化会館の庭に
美しく花が咲きはじめる。
この桜は、学会草創の、あまりにも激しい攻防戦のなか、
炎のごとく燃えあがる信心で、広布の荒野を若くして走り散っていった
初代北海道女子部長、嵐慧子さんの功労をたたえて植樹した桜である。

やがて、1冊の美しい小冊子ができあがった。
「北国の華」と題してあった。
彼女を偲んで後輩の有志がまとめたものである。
私も、妹のごとき彼女に語りかける思いで「嵐桜よ 永遠に」と題して
一文を寄せた。「彼女の広布にかけた短くも、美しい青春乱舞、
可憐な生涯は、まさに救国の乙女、ジャンヌ・ダークのようであった。・・・・」と。

吹雪の北海道・小樽の街。昭和三十年三月十一日のことであった。
雪が降りしきるこの港町の公会堂が、広布史上に名をとどめる小樽問答の舞台となった。
このとき「留萌から来た嵐さんです」と紹介されたのが、
彼女との初めての出会いであった。彼女はいまだ入信の日が浅いようであったが、
その真剣な澄んだ瞳は、芯の強い、教養のある乙女と印象深く残った。

彼女は、当時、北海道銀行留萌支店に勤めていた。
一男三女の長女として江刺で生まれ、小学校三年生の時、
教師であった父が千島で戦死している。
働きながら小・中学校に通い、札幌南高校を卒業した。
二十九年、参加した座談会で、女性の幸せが、容姿や財産、
結婚で築けるものではない、確たる人生観こそ大切であるとの
仏法の教えに心ひかれて入信をした。

やがて、彼女は札幌に転勤となった。
この中心地点で彼女の広宣流布の戦いは光っていった。
三十一年の夏、初めて北海道に女子部札幌第20部隊が誕生したが、
このとき、初代部隊長として、彼女がさっそうと登場したのである。
時に、彼女は二十一歳であった。
声はすずやかで歯切れよく、動作もきびきびとして、
若アユを思わせる若きリーダーであった。
彼女の美しい情熱に、北海道の女子部は大いなる希望に胸ふくらませながら、
めざましく立ち上がっていった。東京の女子部も、関西の女子部も、
その発展に目をみはったものである。
私は激励の言葉を彼女に贈った。

明日を生きぬき
世紀を築く
北海の白蓮華と
君よ咲きゆけ
ともかく嵐さんの目は不思議なぐらい澄んで輝いていた。
いま思えば、彼女が結核に侵され、弱き身であったことを
知らなかったのが残念でならない。
慧子さん自身もけっして皆に心配かけぬよう、
健康に注意しながらの素振りをみせていたようだ。

かわいい自分の後輩が訪ねてくれば親身になって指導した。
遠隔の地で戦う後輩の要請があれば、自分の体をいとわず、
喜々として車中の人となる彼女であった。
私は彼女の身を案じて、一時、役職を退き、ゆっくり静養するよう進言した。
そして東京から励ましの電話を入れた。

一年後、彼女はみるみる元気になった。
東京・両国の日大講堂での第八回女子部総会(昭和三十五年十一月)の席上、
二万数千人の女子部員の歓呼と拍手を浴びて、
彼女は晴れて部隊長から栄光の初代北海道女子部長に就任したのである。

彼女の信心の力と人柄によるものだろう、
小人数だった北海道の女子部(昭和三十年当時)も、
三十六年には十二部隊、九千五百余人へと大発展をとげていった。

しかし、これからが人生の輝く星として待望されていた彼女の体に
再び病魔が走りまわり、しだいに体が弱っていった。
多くの婦人も、壮年も、青年も彼女の体を案じたのであった。
ましてや、後輩の女子部員たちの心配は、言語を絶するものがあった。

三十六年の、秋を迎えた。横浜の三ッ沢競技場での八万五千人による
第九回女子青年部総会が、いま思えば彼女の最後の上京となった。
「無理をしないよう、できれば参加を見あわせるように」と
秋谷青年部長(現会長)が伝えたそうだが、すでに彼女の心は
三ッ沢にあったようである。

晩秋を迎え、東京体育館での本部幹部会が終わったときのことと記憶する。
私は慧子さんが入院したとの知らせを聞いた。
見舞いの電報を打ったが、辻先生(副会長)が北海道へ行くと聞き、
お見舞いをお願いした。

昭和三十六年、師走の十四日のことであった。
おとぎの国の銀世界をながめながら、多くの友の唱題につつまれながら、
彼女は、霊山へ旅立ったのである。
彼女は、亡くなる一日前まで、にこやかに見舞いの人びとと会っている。
そして「今朝の診察で、結核は治っているそうです。ただ心臓が少し
弱っているようです」と、笑顔で語っていた。また、亡くなる数時間前に
見舞った同志には「後を頼みます」と瞳を光らせる慧子さんであった。

夕刻、白いほおに微笑みを浮かべ、家族に見守れながら、
慧子さんは妙法の革命に捧げぬいた短くも尊い生涯の幕を閉じた。
齢二十六であった。
訃報を聞いた一瞬、私は信じられなかった。
当時は私も疲れ、貧しく、なにもしてあげられなかったことが、
あまりにもかわいそうでならなかった。

彼女とは北海道でも、東京でも、よく仏法のことを語りあった。
北海道の未来についても語りあった。
利発な、責任感の強いリーダーを失ったことは、身を切られるような思いであった。
年が明けての女子部葬に私は出席した。さらに、その春、ご遺族とともに、
彼女のもっとも懐かしい北海道本部(当時)の庭に桜の木を植樹した。
これが「嵐桜」である。

母親のリヨウさんも、妹さんも、慧子さんが歴史をとどたその地で、
たくましく幸せに生きぬいておられる。お母様は、娘の生涯をたたえる一文に
「慧子の強信がもたらしたお陰でしょう。私も福運に恵まれた環境に
生活している現在であります」と達筆に書かれていた。

彼女をたたえ、「全国副女子部長」の称号が贈られた。
彼女を知る北海道の乙女たちが、こぞって”妙法のジャンヌ・ダーク”と
賛嘆し、慕った、あこがれのリーダーであった。
ともあれ、彼女は、限りなくつづくであろう女子部の先駆者として、
その名は、来る年ごとに輝きゆくことは間違いない。
学会女子部の鑑・嵐慧子さんの一文に筆を進めながら、
あらためてご冥福を祈りたい

(昭和57年6月24日)