投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年10月 5日(水)18時21分6秒   通報 編集済
像法残機――人は形式的で形あるもの、荘厳で難しそうな言葉に弱い。

そのような〝いびつで人工的〟に語るものからは「我、仏なり !」という実感は湧かないと思う。

僧俗和合時代と今現在を比べてみても

「正本堂に行ってきました。大変感動しました」
「大誓堂に行ってきました。大変感動しました」――。

昔と今と どこがどう違うのでしょうか。何も変わっていません。同じです。

大誓堂は創価学会の一つのシンボルですが、一番尊い宝塔は人間の生命です。自分自身なのです。

死んでも 死んでも 何度でも生まれてくる――。

熱原の農民は、その実相を容易に理解し、確信したからこそ、一番尊い自分の命を法のために捧げられたのだと確信します。

それが分かった人間は、何をされても動じない、恐れない。権力者は民衆がそうなるのが一番怖いのです。

須田論文は宮田論文を完膚無きまでに破折しています。・・・・しかし、普通の学会員にはむずかしい。

一体いつまで天台仏教をマネているのだろうか。プンプン

一部の人間には理解されても、普通の平凡に生きている人には血が通っていない文字に見える。

釈尊滅後、弟子は法華経(法)を後世に伝えました。しかし、釈尊の人間性や気高い志ざしは削除されました。
それによって、正法時代の民衆は釈迦仏法から取り残されたと思うのです。

一部の人間にしか理解できない仏法に成り下がったのです。

像法時代に至っては、仏法はむずかしいもの、理解しがたいものとして定着し、
一部の人間にしか理解されずに、これもまた民衆が置き去りにされた。

しかし、大聖人は釈尊・出世の本懐は「振舞い」だと断言された。
そして、釈尊の人間性と気高い志ざしを取り戻し、民衆に教えていった。

大聖人の振舞いを通して――。

創価三代の師匠も又、自身の振舞いを通して大聖人の気高き志ざしと人間性を語り、
「人間・日蓮」の真実の姿をこの時代の言葉で教えてくれました。

しかし、三代の師匠の言葉は簡単すぎてなかなか信じようとしない。笑

どんなに日蓮大聖人や創価三代の師匠、また現会長を美辞麗句の言葉で荘厳し、飾り立てても
それらのいびつな言葉からは大聖人や師匠の出世の本懐は見えないと思う。

これを読んでくれているあなたに聞きたい。

あなたがもし「久遠元初自受用身如来さん、手をあげてください」と言われて素直に手をあげれますか ?
日蓮大聖人だって、その場にいても手をあげないと思う。笑

「なんだ ? その長いいびつな名前は ? もっと普通の、現実に付けている現代の名前で呼んでくれ」となる。

もう一度、繰り返して言います。

須田論文は宮田論文を完膚無きまでに破折しています。・・・・しかし、普通の学会員にはむずかしい。

御書は証明のために使うのであって、その説明は普通の庶民が語る現代語でせよ !

これが今、もっとも必要で、優秀な学会教学人が取り組むべき課題ではないのかと思う。

現場の会員が知りたいのは「どうすれば自分自身が仏であると自覚できるのだろうか」ではないでしょうか。