投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年10月 4日(火)02時21分35秒   通報
世界の希望!様

なぜ信仰するのか。そこに感動があるからです。御書に、「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(P7888)とあるのも、一言で言うならば、「圧倒的感動」でしょう。何故に歓喜の中の大歓喜なのか。それは、六根清浄の功徳を得られるからです。六根清浄の功徳について、法華経には、「是の人は、当に八百の眼の功徳、千二百の耳の功徳、八百の鼻の功徳、千二百の舌の功徳、八百の身の功徳、千二百の意の功徳を得べし。」とあります。実に莫大な功徳を頂戴することのできる仏法であり、そこに大歓喜がないわけがないのです。

そして、六根清浄の功徳は、自身が仏であることを覚知することにつながります。これほどの喜びはありません。法華経を実践するということは、圧倒的感動なのです。私も、はじめて自分の決意で、一日一時間の唱題に挑戦した時に、いまだかつて感じたことのない、大歓喜が湧現したことが、自身の信仰の原点となっています。

広宣流布とは、数字の拡大ではなく、歓喜の拡大であり、感動の連鎖です。六根清浄の功徳は、自身の姿や言葉を通し、皆に勇気と希望と感動を与えることが出来る。これが仏が備えている功徳力です。それが自身にも備わるのが六根清浄の功徳です。

数字の拡大(ノルマ)が先行すると、そこには歓喜は生じず、結果が出ても歓喜のない、本末転倒の状態になります。その先にあるのは、拡大ではなく縮小です。歓喜、感動の拡大こそが、創価の戦いであり、仏意仏勅の証です。だからこそ学会のリーダーは、どうしたら皆が歓喜するか、元気がでるかを考えることがリーダーたる所以であり、数字の拡大を先行させるリーダーは根本からズレていることを知らねばならない。まさに数字の拡大先行の信心は、「広宣流布の空回り状態」と云えるでしょう。

世界の希望!様が仰るように、人を感動させるには、自分自身が感動していなければなりません。信心が惰性では、感動は生じない。いかなる立場や状況であれ、一度題目を唱えるならば、大歓喜が生じ、生命が躍動します。これは、誰でも体感できます。「数字の拡大ではなく、歓喜・感動の拡大をしよう」と決めて祈った時に、御本尊と境智冥合する。どこまでいっても一念が大事であり、法華経の一念(人間主義)であってこそ、法華経を行じていることになる。

組織信心に陥ってしまうと、どうしても歓喜・感動よりも、数字の拡大が先行してしまう。それが組織悪となって、会員を苦しめ、功徳を奪うことになる。組織人として、誰もが注意すべき落とし穴である。相変わらず、自分はがんばっていると思っている人が、一番危なかったりする。組織に功徳(大歓喜)が漲れば発展し、枯渇すれば衰退する。これ、道理である。

圧倒的感動体験こそが、信心している人の特権です。これは、信心していない人には、味わうことはできない。世俗的な感動など、仏法の歓喜の中の大歓喜に比べれば、天地雲泥の差がある。実に、御本尊を持ち、題目を唱えることのできる境涯こそが、最高の幸福境涯であり、歓喜の中の大歓喜である。そのことがわかる人を、仏という。どこまでいっても広宣流布とは、仏(御本尊)の仕事なのである。