投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月24日(水)10時24分38秒 返信・引用

さて、戦いにあたっては、わが身に、諸仏、諸天を「入其身」させる決意で、強く行動すべきである、と大聖人には仰せである。

「弥三郎殿御返事」には
権力者の前で堂々と正義を主張する心構えについて《不惜身命》を教えられ、「釈迦・多宝・十方の仏・来集して我が身に入りかはり我を助け給へと観念せさせ給うべし」(御書一四五一頁)

――《釈迦・多宝・十方の仏よ、集い来って、わが身に入りかわり、われを助けたまえ》と一念を定めなさい――と仰せである。

諸仏を《動かす》どころか、わが身に諸仏を「入其身」させ、満々たる《仏界のエネルギー》で勝負に勝て、と厳しく教えておられる。
諸仏が入其身したならば、所従(家来)の諸菩薩、諸天等が従ってくることは当然であろう。

このように、《諸仏の入其身》を論ずることは、決して傲慢ではない。
それは大聖人御自身が、《そうでなければならない》と強く教えられたことなのである。
同様に、学会員に諸仏、諸天の働きを見ることも、御書に照らせば、決して不遜ではない。
むしろ、御書の仰せをないがしろにして、感情で我見を押しつけることほど、不遜で傲慢なことはないだろう。

「三類の敵人(強敵)」と説かれるように、仏法には敵がいる。
敵と味方を、よくよく知らねば広宣流布の勝利はない。

「かたきをしらねば・かたきにたぼらかされ候ぞ」(御書九三一頁)
――敵を知らねば、敵にたぼらか(たぶらか)されますよ――と大聖人は警告してくださった。

だれが自分の味方なのか。
だれが人間性の味方なのか。
はっきりと見極めねばならない。
最大の満足を与えてあげる努力が自身の仏道修行となる。
また一面からいえば、敵は必要ともいえる。

「かたきなき時はいつわりをろかにて候」(御書一四七五頁)
――敵がいない時は、いつわった愚かな姿のまま安穏に過ごせる――。

これは法華経の行者がいないうちは、他宗のものもいいかげんでいられるという意味である。
そのうえで、私どもも、敵がいるからこそ「いつわり」「愚か」ではいられなくなる。
その分、鍛えられ成長する。《本物》になり《賢明》になっていく。《敵》は成仏の必要条件でさえある。
「僣聖増上慢」はじめ「三類の強敵」と戦ってこそ、成仏の永遠の幸福境涯が開かれる。

【青年部・教学部代表協議会 平成三年九月二十日(大作全集七十八巻)】