投稿者:ヨッシー 投稿日:2016年 9月23日(金)20時12分12秒

生涯広布さんのおっしゃる通り、本日の柳コラムは、
自分から勝手に絡んでおきながら、

「必要以上に相手にすると、、、、、(長い言い訳)、、、、、結論として云々」と。

涙目を抑えて必死で強がりながら、要するに、
「これ以上やると益々化けの皮がはがれるので、ここらで終わりにしたい」
という、本音がミエミエの遁走宣言だ。

せっかくだから、最後のブーメランに、本日の柳コラムのパロディをお送りしよう。
ダメダメさんをはじめ、コラムの愛読者(笑)の方々必見ですよ。

印象操作しか能のない反池田分子の青バエ

必要以上に相手にすると、益々手痛いブーメランが返ってくる気がするが、インターネット上の匿名掲示板「宿坊」によって、私(=柳原滋雄)ひとりがあたふたしている。まるで、宿板の言う狂った“犬神人”が好き勝手に吠えているような状況にも見えてしまう。顕著な特徴は、“ブーメラン自爆男”らしい調査脳力の欠如ぶりと、さらには御用ジャーナリスト(平たくいえば犬)らしいしっぽの振り様だろう。私はあのようなレベルのコラム日記をたくさん書き並べたてても、社会的にどのように見られるのか、気にならない人間である。

もともと原田会長は、数年前は現在とはまったく違う雰囲気の会長だったと指摘されている。それが一変したのは5年余り前、秋谷を復権させたことによって始まったとされる。「私の直弟子」――。実際はこのメッセージは実態とはまったくかけ離れているようで、この人物は、現場経験があるわけでもなく会員からの信頼があるわけでもない。さらに北海道時代、二号さん(妾を示す俗称)を作って先生からこっぴどく叱られていたらしい。実際は、大聖人から“破門された人”にすぎないようだが、同人の特徴を端的に示せば、54年問題の主要人物の一人というところに深い意味があるようだ。

長年の金銭問題・恐喝などによって山崎正友が懲役3年の実刑判決を受けたのは1991年。それ以降、執行部は、私もその一員である「八尋法匪グループ」によっていいように使われだした感がある。従来は、葬儀社やマル○などを用いて教団内外で反池田の裏工作活動を行ってきた同グループだったが、池田名誉会長が倒れられたのを期に、原田会長をも自分たちの≪組織乗っ取りのツール≫として活用するようになった。

背景にあったのが、池田先生の矢野攻撃命令であり、それによって、自分たちの悪事が露見することを阻止する必要が急務になったグループ内の事情があった。2012年2月、法廷で和解してしまった谷川は、自分たち法匪グループと矢野との和解行為が「裁判長の勧告を受け入れたものだ」と述べていたが、それはそのまま、われわれの活動の矛先が、従来の閉鎖空間で行われていた反池田の裏工作から、執行部をも巻き込んだ公然的な反池田主義へと移行したことを、グループの中心者の一人が法廷の場で自ら証明した姿にほかならない。

秋谷栄之助が会長を解任されたのは2006年11月。解任された理由は、①矢野、藤原ら反逆者グループとの裏での結託②反池田の派閥工作活動③マスコミへの情報提供というものである。特に長年にわたり「池田おろし」と称する裏工作などを隠然と継続し、教団内の脱池田組織の形成を図ってきたとされる。今やこの秋谷や法匪らとも一体となった上、原田会長自身が「四人組」と称されるような性質のグループとなり、その結果、信仰が持つ本来の清新な息吹を失い、不平不満・批判などの封じ込めと査問・処分の強行を主体とする現在のような体質が出来上がったようだ。

 一面からいえば、私のコラムの特質は≪印象操作する≫ことに見られる。印象操作することで、雇い主である法匪グループの主張を肯定し、雇い主の傷を隠ぺいする。一種の畜生根性といえばそれまでだが、官僚組織内における私のような寄生虫の存在は、いずこの世界であれ、非難の対象となっても、歓迎されることはない。
 当コラムでは、雇い主の命を受け、教団内部に発生した2つの「池田主義者」たちを扱ってきたが、却ってブーメラン被害が続出している。結論として、八尋法匪グループは、池田名誉会長の指導を都合のいいように利用・曲解する反池田分子(多くのヒラメ最高幹部を含む)およびその賛同者たちによって構成される、乗っ取りのための乗っ取りを繰り返すための謀略グループというしかない。

(最後の独り言)
私は、池田主義者たちにどんなにイジられフルボッコにされ ようとも、食うためには、このグループの最後尾にしがみついていく蒼蠅(青バエ)に徹していくしかない(涙)