投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月22日(月)09時45分30秒 返信・引用

ところで、「其の身に入る」と大聖人が仰せにように、「入其身」は仏法の大切な生命観である。
「悪鬼入其身」の場合にふれると、大聖人は、第六天の魔王が法華経の行者を迫害するために、智者や権力者の身に入ると仰せである。

その時、「形は人なれども力は第六天の力なり」(御書一五三七頁)――姿、形は人間だが、(動かしている)力は第六天の魔王の力である――と本質を教えてくださっている。

「形は人なれども」――姿は、たとえどのように見えようと、その本質は魔王である。
この一点を見誤ってはならない。

第六天の魔王とは、生命の「元品の無明」の現れであり、それを切るには「信心の利剣」しかない、と説かれる。
ならば、剣を抜かねばならない。
「つるぎなんども・すすまざる人のために用る事なし、法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ」(御書一一二四頁)
――剣なども、勇気のない人には無価値である。法華経の剣は、勇気ある信心の人こそ用いることができる――と大聖人は教えられている。

また、「法華経はよきつるぎなれども・つかう人によりて者をきり候か」(御書一一八六頁)
――法華経は良い剣だが、使う人によって、切れるかどうかが決まる――と仰せである。

大切なのは「勇気」である。何ものも恐れないのが「信心」である。
「勇猛」の人には、諸天も威光勢力を増して守りに守っていく。
「声は力」「文は剣」である。青年部、教学部は、正義を語りぬいた歴史を残していただきたい。

これは悪の「入其身」であるが、釈尊、諸天等の「入其身」も、形は人であっても、力は釈尊、諸菩薩、諸天の力である。表面の姿にとらわれて、その尊貴なる本質を忘れては、たいへんな過ちとなろう。
御書には、このほか修羅が「入其身」した「他に勝ちたい一念」の邪宗の僧、梵天、帝釈が「入其身」した蒙古の王、その他が説かれている。
(中抜)
「入其身」といっても、十界互具である以上、本来は、すべて、わが人生にも具わる働きである。
戸田先生は、教えられた。
「その神々(=諸天善神)は、どこにいるかということになります。神社にいるかというと、神社にはおりません。われわれの体のなかにいるのです」
「なにか困ると、梵天、帝釈が働くのです。向こうから助けるのではなく、こっち(=己心)にあるところの梵天、帝釈が働きだすのです。南無妙法蓮華経に照らされて、御本尊様のほうの梵天と帝釈がこっちに感応してくる。だから梵天、帝釈が働かざるをえなくなるのです」

「諸天善神というものが、梵天、帝釈一人しかいないのだとするならば、みなこれだけの人が東の方を向いてやっているのです。時間が違っているから忙しくてしょうがない。ひとりで走り回らなければならないことになる。
そうではないのです。こっちにいる人が出て行って、そして仲間を呼ぶのです。梵天だって一人ではない。帝釈だって一人ではない。何千人何万人といるのです。それだけいるのだから、みな集まってきます。そして、その人ひとりを守るのです。それが法華経の諸天善神です」と。

「何千、何万の梵天、帝釈が皆集まる」――皆さま一人一人のために、諸天がこぞって来集するのである。
「信心」さえ確かであれば、諸天が動かないはずがない。乗り越えられない山などあるはずがない。

【青年部・教学部代表協議会 平成三年九月二十日(大作全集七十八巻)】