投稿者:無冠 投稿日:2016年 9月18日(日)00時53分6秒   通報 編集済
全集未収録のスピーチ144編の各抜粋(聖教新聞 2006.5~2010.4)を掲示します。

2008-11 【代表幹部協議会】

■ 代表幹部会の開催、おめでとう。ご苦労さまです(大拍手)。
 きょうは、家族の団らんのように、懇談的に、楽しく話を進めていこう。どうか楽な気持ちで聞いていただきたい。
 最初に記念の句を贈りたい。

    師弟不二
     君も並べや
      創価かな

 この「君も並べや」とは、牧口先生、戸田先生、そして私と続く、創価三代の師弟の陣列に並べ、という意味である。
 その陣列は、「創価学会」即「広宣流布」の総大将としての陣列である。
 後世の歴史に厳然としるされていく立場である。
 その深い使命を皆さんは自覚していただきたいのだ。

● 勇者の陣列を
 一、今、私の創立した創価大学の出身者が、あらゆる分野で、あらゆる次元で、目覚ましい活躍を遂げている。
 広宣流布の指導者群も、本格的に創大出身者が中心になって担っていく時代に入った。私は、うれしい。
 皆の力で、堂々たる正義の勇者の陣列を築いていただきたい。
 おめでとう!(大拍手)

 一、さらに、句を贈りたい。

    断固立て
     広宣流布を
      勝ちまくれ

 広宣流布の指導者は、絶対に気取っていてはだめだ。
 やっているのか、やっていないのか分からない。そういう中途半端もいけない。
 広布のため、同志のため、いかなる労苦も惜しまず、率先して行動していくのだ。
 とくに男性は、見かけなど気にする必要はない。結果が第一だ。
 ”イケメン”じゃなくていいんだよ(笑い)。そのままの戦う顔であればいい。
 日蓮大聖人は「無作三身」と説いている。
 「はたらかさず・つくろわず・もとの儘」(御書759ページ)とあるように、「無作三身」とは、本来ありのままの「仏の境涯」を意味する。
 その「無作三身」の力を、ただ「信」の一字によって得ることができると、大聖人は教えられたのである。(御書753ページ)
 ゆえに、御本尊にしっかりと祈り切って、あとは誠心誠意、自分らしく、ありのままの「真剣」と「誠実」で進んでいけばいいのだ。
 私は、それでやってきた。皆さんも、頼むよ!(大拍手)

● 何も恐れるな
 一、さらに一句を捧げたい。

    我も師子
     君も師子たれ
      師弟不二

 大聖人は、「師子の声には一切の獣・声を失ふ」(同1393ページ)と仰せである。
 人の胸にビンビンと響きわたる声だ。それが師子である。
 猫や鼠のような弱々しい声では、広宣流布の熾烈な闘争に勝てるはずがない。
 破邪顕正の堂々たる師子吼で、嫉妬の悪人たちのデマや中傷を、毅然と打ち破っていくのだ。
 私は師子である。何も恐れない。皆さんは、一人立つ「正義の師子」になってもらいたい。

● 常楽我浄の道を
 一、ここで御聖訓を拝したい。
 「(日蓮は)法華経を信じることにおいては、世界第一の聖人です。その名は、十方の浄土(=全宇宙の仏国土)にも聞こえています。必ず天も地も知っているでしょう。
 (ゆえに)あなたが『日蓮の弟子である』と名乗られるならば、どのような悪鬼であろうとも、よもや、日蓮の名を知らないと言うはずがないと思ってください」(御書1480ページ、通解)
 この世界第一の大聖人に直結する、我ら創価の師弟は、何があろうとも、恐れるものはない。
 いずこにあっても胸を張って、「常楽我浄の道」を永遠に勝ち進むことができるのだ。
 また、有名な「佐渡御書」には、こう仰せである。
 「外道や悪人が、如来が説いた正法を破ることは難しい。仏弟子らが、必ず仏法を破るのである。『師子身中の虫が、師子を内から食う』といわれる通りである」(同957ページ、通解)
 この厳しき戒めを、忘れてはならない。
 さらに大聖人は「仏と提婆とは身と影とのごとし」(同230ページ)とも仰せだ。
 仏法は、仏と魔の闘争である。三類の強敵を打ち破る、信心の戦いなのである。

● 全て勝利の因に
 一、大聖入門下の四条金吾は、いわれなき讒言によって主君から迫害され、最大の窮地に立たされた。
 大聖人は、厳たる対応を教えられた上で、こう仰せである。
 「もし日蓮が(佐渡に)流罪されないで鎌倉にでもいたならば、あの時の戦い(文永9年2月の北条一族の内乱=二月騒動)に巻き込まれて、きっと打ち殺されていたにちがいない」(同1164ページ、通解)
 大聖人は佐渡流罪という大難にあわれた。しかし、そのおかげで戦乱をまぬかれ、命が助かったのだと言われている。
 さらに「大事になったならば、必ず大きな騒ぎが、大きな幸いとなっていくのである」(同)とも仰せである。
 妙法の世界には、すべて意味がある。すべて御仏意なのである。
 人生も社会も、激しい変化の連続だ。やりにくいこともあるかもしれない。思うにまかせぬこともあるだろう。
 しかし、すべては未来の勝利の因と確信し、一日また一日、「人間革命の黄金の日記」を、心晴れ晴れと綴ってまいりたい(大拍手)。

● 師弟不二の大願に立て
 一、法華経の「五百弟子受記品第8」。
 ここでは、声聞の弟子たちが「深心(じんしん)の本願」──本来の自分自身の誓願に立ち上がる。
 弟子たちは、師匠。釈尊との生命の対話を通して、自身の小さな殻を打ち破った。そして、民衆の救済という師弟不二の大願に立ったのである。
 釈尊から成仏の記別を授けられる、五百∧の弟子。
 この五百人は、釈尊の草創の弟子の数ともいわれている。しかし、もちろん、五百人が特別な存在なのではない。
 御義口伝に、「妙法の五百であるので、十界三千の一切衆生は皆、この五百の弟子なのである」(御書796ページ、通解)と仰せである。この五百人の成仏は、すなわち一切衆生の成仏を表すものなのである。
 大事なのは、本物の決意に立った弟子である。「師弟不二」の精神に生き抜く真実の弟子である。
 本気の人間がいれば、すべての人を引っ張っていける。中核が大事だ。リーダーで決まるのである。
 この「五百弟子受記品」で、弟子の先頭に立ったのは、富楼那であった。「説法第一」「弁舌第一と謳われた闘士である。
 広宣流布のリーダーである皆様もまた、「雄弁であれ!」「真実を語りまくれ!」、そして「師子となって正義を叫びまくれ!」と申し上げたい(大拍手)。

 ◆地域の拠点を大切に
 ◆『会場提供者』『会館管理者』に心から感謝

● 日々前進を!
 一、ともあれ、こちらが真心と感謝の思いで接すれば、提供者の方も「こちらこそ、皆さんに喜んでいただいて、うれしいです」と、晴れやかな気持ちになる。張り合いがある。
 「使って当然」と当たり前のように思うのは、大間違いだ。
 また、信心のためだからといって、無理にお願いするようなことがあってはならない。
 会場を提供するのは大変なのである。
 大勢の人が来れば、トイレも汚れる。畳も擦れる。子どもが障子を破いてしまうこともあるだろう。
 かつて、大田区の小林町にあったわが家も、会場に使っていただいたことがあった。
 また、私の妻の実家も、長く学会の拠点として使っていただいた。
 広布のためにとの思いで、喜んで会場を提供してきた。
 学会には、会場の提供者として、皆のために尽くしてくださっている方が大勢いる。
 こうした方々を大切にしないといけない。それが仏法である。
 皆さんの中で、会場を提供してくださっている方はいますか?〈会場の提供者が立ち上がった〉
 皆で、感謝の思いを込めて拍手を贈りたい(大拍手)。
 ともあれ、学会は、「日進月歩」「日々前進」で行くことだ。油断は大敵である。
 まずは最高幹部が、今まで以上に、一つ一つ真剣に、誠実に行勤していくことだ。
 そうすれば、学会はまだまだ伸びていける。
 もっと大きく発展していけるのである。

■ 一、美しき「広布の花」「創価の花」の女子部の皆さん!
 いつもいつも、友のため、社会のための、尊い奮闘、本当にありがとう!
 心からの賞讃を込めて、記念の句を贈りたい(大拍手)。

     世界一
      平和と文化の
          創価かな

 今、あの国にも、この地にも、広布第2幕の「池田華陽会」の友が、生き生きと活躍している。
 さっそうと使命に舞いゆく乙女の姿は、皆を鼓舞し、毅然と立ち上がらせ、歓喜と勝利の花を咲かせる。
 女子部の前進が創価の前進である。

■ 女子部の皆さんは、一人ももれなく、幸福博士と輝いていただきたい。それが、私と妻の変わらざる祈りである。
 女子学生部の皆さんの見事な活躍も全部、うかがっている。

    女子学生
      平和と幸福
         この旗に

 「この旗」とは「勇気の旗」であり、「希望の旗」であり、「師弟の旗」である。
 「この旗」を心に高く掲げゆくことだ。

● 正義の言論こそ広布を聞く力
 一、末法は「五濁悪世」である。「闘諍言訟」の時代である。
 生命も濁り、思想も濁り、正邪も善悪も、わからなくなる。
 その中で、広布を聞く力は、「正義の言論戦」である。
 これこそ、恩師・戸田先生が強く叫ばれた一点であった。
 御聖訓には、こう仰せである。
 「(仏法においては)事実、勝れていることを勝れているということは、慢に似ているようだが、じつは大功徳となるのである」(御書289ページ、通解)
 「いいものはいい」「正しいものは正しい」と叫ばなければ、人には伝わらない。
 社会においても、広報・宣伝が重要視されるゆえんである。
 臆病者が、いくらいても、正義と真実を打ち立てることはできない。
 勇んで打って出るのだ。声も惜しまず語るのだ。
 忍耐の攻防戦が重なって、勝利、勝利の道は光る。
 今や、広布の新時代が到来した。創価の人間主義への世界の期待は、いや増して高まっている。

  君達が
    勇気を抱きて  戦いて
       勝ちまくりたる  勝利嬉しや

 新しい人材群が勝って勝って勝ちまくる姿を、私は祈り、待っている。
 頑張れ!(大拍手)

● 師に捧げた人生
 一、思えば、戦後間もないころ、戸田先生の事業は挫折し、先生は学会の理事長を辞任された。学会は四分五裂の危機にあった。
 その時に私は、ただ一人、すべてをなげうって先生を支えた。絶体絶命の窮地にあった先生を、徹してお護りし抜いた。
 私がいなければ、今の学会はない。戸田先生、そして牧口先生の死身弘法の闘争も、水泡に帰すところであった。それほど、第3代が大事だったのである。このことは、御本尊の前で胸を張って申し上げることができる。
 私が戸田先生の後を継ぎ、第3代会長に就任してからも、激しい迫害の連続であった。
 誹誇もあった。
 中傷もあった。
 そのなかで、私は世界への道を開いた。皆が悠々と、安心して、広宣流布に邁進できるように、人知れず心を砕き、わが人生を捧げてきた。語りに語り、書きに書いて、あらゆる面で広布を支えた。
 そして迎えた昭和54年(1979年)。
 会長就任から20年を目前にし、学会は、いわば絶頂期にあった。
 その時に私は、第3代会長の辞任を余儀なくされたのである。
 心卑しき人間は、偉大なものに嫉妬する。
 謀略の輩は、虚栄に溺れ、私利私欲から野合して、師弟の道を壊そうとした。臆病者は保身に走った。
 御聖訓には仰せである。「この法門についた人は数多くいるけれども、公私ともに大難がたびたび重なってきたので、一年、二年はついてきたものの、後々には、皆、あるいは退転し、あるいは反逆の矢を射た。また、あるいは身は堕ちなくても心は堕ち、あるいは心は堕ちなくても身は堕ちてしまった」(御書1180ページ、通解)
 その通りの、浅ましく、情けない、愚劣極まる姿があった。
 あの時、全国、全世界の同志から、多くの連絡をいただいた。
 ──最も功績があり、最も師匠に仕えた池田先生が、どうして辞めなければいけないのか。先生は、何一つ悪いことはしていないじゃないか。幹部はなぜ、先生を護らないのか──
 こうした悲しみと怒りの声が、電話で、手紙で、無数に寄せられ。その数は、直後のものだけでも、およそ8200から8300になる。
 この真の同志の心を、私は生涯、忘れることはない。そして、どのような立場になろうとも、私は永遠に、尊き同志を護り、学会を護り抜いていこうと、深く心に誓ったのである。
 私はあえて、真実の歴史を語り残しておきたい。これからの学会のため、広宣流布のため、誤りなく正義の道を進みゆくために、本当のことを語っておきたいのである。
 牧口先生は、「忘恩者」「不知恩者」を諸天善神が「加護し給う訳がない」と厳しく断じられた。
 その通りに、悪逆の輩は厳たる仏罰を受けている。皆様がよくご存じの通りだ。
 将来にわたって、若き諸君は、悪い人間に騙されてはならない。表では、いい格好をしながら、裏で策を弄する卑劣な人間もいる。正義の人が滅び去るのを、密かに待っている者さえいる。
 人ではない。自分が「真の弟子」の自覚に立つのだ。深き信心を奮い起こし、「仏眼」「法眼」をもって正邪を見抜くのだ。
 戸田先生は叫ばれた。「恐れれば、自滅するだけだ。敢然と突き進むのだ!」
 私はこの言葉通り、師に誓った道を、今日まで、敢然と突き進んできた。
 今、広宣流布の永遠の未来を考える時、何より大事なことは、若い世代の人たちを「真の後継者」へと育て上げることである。
 若き諸君は、人を頼らず、だらしない先輩など乗り越えて、断固、突き進むのだ。下から上へ、どんどん建設的な意見を述べるべきである。
 先輩も、これまで以上に、皆を大事にし、皆と一緒に、手を携え、肩を組みながら、進んでいくことだ。
 同志愛が光るリーダーであっていただきたい。話をする時も、さわやかな笑顔、皆がほっとするような声で、希望と勇気を贈っていただきたい。
 見栄っ張りではいけない。とくに男性は「王者の風格」をもたねばならない。
 ともあれ、正義の師弟を守ることが、広宣流布を守ることになる。学会の全同志を守ることになる。私は、そう心に刻んで生きてきた。
 一緒に進もう!
 一緒に戦おう!
 私は皆さんとともに、いよいよ総仕上げの戦いをするつもりである。
 年配の幹部も、パーツと花火があがるように、勢いよく、生き生きと生きるのだ。
 頑張ろう! 偉大なる学会を、ともどもに築いていこう!〈力強く「ハイ!」と返事が〉

■ 一、きょう集われたなかには、ご両親が病気の方もおられるかもしれない。
 妙法は、生老病死の苦を根本から解決する大良薬である。「いかなる病さは(障)りをなすべきや」(御書1124ページ)である。
 大事なことは、まず自分が、父母の健康を祈り抜くことだ。心からの励ましを伝えることだ。親孝行をしてあげることである。
 どんなことがあっても、信心さえ忘れなければ、必ず、三世永遠の幸福の道を開いていける。これを深く確信していただきたい。
 私も妻も、全同志の健康と幸福と勝利を、毎日、真剣に祈っております。
 また周りに、病気の方や、病気のご家族をもつ方がおられたら、どうか温かく支え、励まし、応援して差し上げていただきたい。
 それでは、皆さん、お元気で!
 全員が、わが使命の戦野で勝ちまくってください! 勝たなければ、自分が損をする。皆も悲しむ。
 何より、仏法は勝負だ。魔に負けるか、勝って仏になるかである。
 年配の幹部も、意気地のない姿であってはならない。師弟に生き抜く覚悟があれば、心はピンとするものだ。
 長時間、本当にありがとう!(大拍手)
 〈さらに名誉会長は「友が喜ぶならば」とピアノに向かい、恩師が大好きだった、父子の決意の曲”大楠公”などを演奏。またアメリカの友のためにと「さくら」を奏でた〉
 我らは創価家族である。高らかに学会歌を歌いながら、元気に前進しよう!
 何があっても、楽観主義で進もう!
 リーダーは、決して威張ることなく、庶民に尽くし、皆を大事にすることを、忘れてはならない。威張るのは「愚者」の証拠であるからだ。
 また、お会いしよう!(大拍手)