投稿者:一人のSGI 投稿日:2016年 9月12日(月)07時49分14秒   通報 編集済
「円融、円満(総)の、空(性)仮(相)中(体)の三諦(くう、け、ちゅうのさんたい)」 と
「三身即一身(さんじんそくいっしん)一身即三身の、法報応の三身(ほっ、ぽう、おうのさんじん)」について

考察してみました。
又、いろいろなご意見のある方はよろしくご意見されます様お願いいたします。

衆生に有る時には此れを三諦と云い仏果を成ずる時には此れを三身と云う一物の異名なり
   三世諸仏総勘文抄 p573

通解
 われわれの生命は、本来、空仮中の三諦を具備している。だが、仏果を成ずるときは、空諦はそのまま報身に、
仮諦はそのまま応身に、
また中諦はそのまま法身にと転ずるのである。

<空、仮、中の三諦>

まず空、仮、中の三諦とは、生命の三つの側面を説明しています。
浅い例えではありますが、それでも例えていえば、中が空洞の円柱があったとしますと、その円柱を、
上から見れば円く、横から見れば長方形で、中をみてみれば空洞だという様なもので、
しかもそのすべてがその円柱の一部を表しているようなものです。

又、戸田先生は次の様に、分かりやすく説明されています。

空仮中の三諦などというと、ちょっとわからないでしょうが、これは空諦、中諦、仮諦と、仏法哲学において、この世の中の実相が
どういうものか、われわれの命がどういうものであるか、ということを考える考え方を根幹として、「空仮中の三諦」というのが
あるのです。これは、天台大師の師匠である南岳(なんがく)大師が考えだした哲理なのです。
このなかで、私がこうして生きているのは、仮の実体です。私はこのままかといってもそうはいかないでしょう。
もう十年もたって、私がもし生きて六十七歳にもなったら「先生、ずいぶん変わりましたね」ということになるでしょう。
しかしこれだって、私は二十歳のころは美男子だったのです。そしたらその美男子と、いまのように美男子でないのと、
どちらがほんとうなのか、それはどちらもほんとうです。
ですから仮の実体というのです。いまのは仮の実体としか見えません。これを仮諦といいます。
空諦とは、あるといえばある、ないといえばない、こういうところのものを有無にかかわらず、真の実在をば空諦というのです。
私の生命も空諦です。おまえはおじいさんの時があるといえば、それはいまはないでしょう。
たしかにおじいさんではない、私は青年です。しかしおまえは赤ん坊の時はなかったかといえばなかったのではない、あったのです。
そうなると生命は空であります。
それであって戸田城聖は中道法相(ちゅうどうほっそう)、戸田城聖は厳然として永遠にそなわっている、これが中諦であります。