投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2016年 6月16日(木)11時04分55秒   通報
【池田大作全集74巻】
創立六十周年祝賀の青年部記念幹部会 (1990年4月20日)より~(4/4) 終わり

■自身の人間完成を法戦の舞台で

相手を「納得させる力」――。いずこの世界であれ、それが人間としての実力である。仕事でも家庭でも教育でも、仏法の世界でも同様である。その一個の人間としての実力が「信心」の表れなのである。

「説法第一」の活躍――彼が弘教した数は、九万九千人といわれる。広宣流布を願っていた釈尊は、師匠として、どれほどうれしかったであろうか。

さて富楼那は、やがて、自分の故国に布教しよう、と決意する。
その西方海岸部の地方は、まだ仏教が伝わっていない。海に生きる人々が多く、気性も荒い。手も早い(笑い)。釈尊は、大切な弟子の身を心配した。

「富楼那よ、かの国の人々は、気が荒く、ものの道理がわからず、人の悪口ばかり言うそうだ。彼らは君をあざけったり、ののしるだろう。その時は、どうするつもりか」

弟子は答えた。何の迷いもない。にっこりと微笑みさえ浮かべていたかもしれない。

「そうしたら、こう思います。『この国の人々は、いい人たちだ。私を手でなぐったりしないのだから』と」

「それでは彼らが、君をなぐったら、どうする」

「こう思います。『この国の人々は、いい人たちだ。私を棒でたたいたりしない』と」

「棒でたたかれたら、どうするのか」

「私を鞭で打ったりしないから、いい人たちだ』と思いましょう」

「鞭で打たれたら」
『刀で傷つけられないからよい』と」
「刀で傷つけられたら」
「殺されないから、よい人たちだ』と」

「それでは富楼那よ、かの国の人々に殺されたら、君はどうするのか」

覚悟の弟子は、すずやかに答えた。
「みずから死を求める人間すらいます。私は求めずして、仏法のために、この貧しく、汚い身を捨てることができるのですから、大いに喜びます」と。

世の中には、恋愛などの理由で自殺する人さえいる。どんな死に方をするにせよ、死は必ず訪れる。ゆえに永遠の生命からみれば、「法」のために死ぬことは、無上の誉れであり、福徳となる。

「殉教」は、願ってもない喜びです――弟子の答えを聞いて、釈尊は安心した。

「善きかな、富楼那よ、その決意があれば大文夫であろう。行ってきなさい」
こうして彼は故郷に帰り、一年目で早くも五百人を入信させたという。彼はこの地で没している。

まさに「忍辱の修行」の模範の姿であった。富楼那は法華経で「法明如来」の記別を受けている。彼は富も捨て、安楽な生活も、名声も、生命すら捨てて、ただ「師」を求め、「法」を弘めた。根底に微塵も政治性や要領、かけひきなどなかった。ただ「信念」のみがあった。彼は自分の人生を、うまく栄光で飾ろうなどと、思いつきもしなかったにちがいない。状況を計算しながら綱わたりし、泳いでいくような卑しい保身は、いささかもなかった。

十大弟子は、こうした戦いによって、万世に名を残した。

戸田先生は″霊鷲山で、釈尊の弟子方らと同座した時、「末法の青年はだらしがないな」と笑われては、地涌の菩薩の肩書が泣く″と教えられた。
何より一人の人間として、一人の信仰者として、偉大でなければならない。そのためには苦労を求め、苦労をしきらねばならない。

■行動こそ雄弁なり

ところで大聖人は″法華経の敵と戦わなければ成仏はできない″と、御書の中で幾度となく言われている。

たとえば、南条兵衛七郎(南条時光の父)に与えられた御書で、「信心ふか(深)きものも法華経の
かたき(敵)をばせ(責)めず、いかなる大善をつ(作)
り法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・せ(責)
めざれば得道ありがたし」

――信心が深い者もなかなか法華経の敵と戦わない。どのように大きな善業をつくり、法華経を千回、万回と読み、書き写し、天台の一念三千の観念の修行の悟りを得た人であっても、法華経の敵を責めなければ、絶対に成仏はできない――と。
現在の私どもの場合でいえば、どんなに信心に励んできたようであっても、法華経の敵、つまり謗法の者、正法誹謗の者と戦わなければ成仏はできない、ということである。

富楼那の雄弁は、決して人気とりや、人当たりのよい弁舌などではなかった。それは正法の敵と戦う正義の叫びであった。民衆を、不幸な人々を、何とかしたいとの情熱と知恵の発露であった。
師・釈尊の心を、願いを、人々の中に脈動させんとする、やむにやまれぬ弟子としての行動であった。

まさに、正法の敵と戦うために、みずからの命をも惜しまない″声仏事を為す″の実践であったわけである。

もちろん「雄弁」といっても、その根本は、説得力である。ただ多弁であることが雄弁ではない。
よく社会で「訥弁(とつべん)《つかえつかえしゃべる話し方》のセールスマンのほうが成績がよい」といわれることがある。それは、言葉数が多いとか、うまく話をするということではなく、その人全体の信頼度の問題である。相手の信頼を得ずして、本当の説得とはならないし、雄弁とはいえない。

また、シュークスピアの言うごとく「行動こそ雄弁なり」(「コリオーレーナス」)でもある。言葉だけで行動のない人は、信用されない。どのような行動をしたか、それがその人間を雄弁に語ってくれるのである。

ともあれ、「法」を語り、話した分だけ、広布は進む。どう人々の心をとらえ、心に染み入るように語っていけるか。言葉の綾とか、方法、策ではない。真心の、信念の叫びこそ、相手の心を打つのである。

青年部の諸君は、時代の先取りをして、自分たちの言葉、自分たちの表現で、富楼那のごとく「雄弁第一」の法戦を展開していくべき責任がある。そこに、いわば″精神の水ぶくれ社会″におちいりつつある現代を覚醒させる道があるからだ。後継の諸君の責任は重い。

天気にも、晴れの日もあれば、曇りや雨、雪の日もある。と同じように人生の空にも、希望の太陽が輝く日もあれば、苦悩の雲がかかることもある。

ましてや悩み多き青春時代である。華やかな人生の勝利とは無縁のような失意の日々もあるだろう。社会の矛盾の雲に開ざされ、失望の嵐にさいなまれることもあるだろう。

しかし、大切なことは、自分の″嘆きの心″に負けないということだ。不幸でないことが幸福でもあるように、″負けない″ことは″勝った″ことである。何があっても、絶対に負けない――それが信心である。

諸君にとって大事な、大事な青春であり、人生である。決して苦悩に負けることなく、勇んで広布に生きぬき、堂々と正しき人生の大道を歩み続けていただきたいと念願し、私の記念のスピーチとしたい。
(創価文化会館)