投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 6月13日(月)10時15分44秒   通報
不軽菩薩が伝統的な修行法である経典読誦を用いず、礼拝行に徹し抜いたということは、

経典の表面的な意味に囚われることなく、経典の真髄を直接、相手に示すという革新的な手法ともいえます。

また、人を礼拝するという行為は〝万人の生命に仏性が内在する〟法理を
観念的・抽象的に語るのではなく、現実の行動によって実践しているといえます。

しかし、増上慢の比丘、比丘尼、また在家の男女は、この不軽菩薩の言葉を受け入れず、
反発して「杖木瓦石(肉体的暴力)・悪口罵詈(言論の暴力)」という迫害を加えました。

不軽品の後半・偈頌では、この迫害を加えた人々について

「彼らはそれまでに形成されてきた形式的な教義や言葉に執着し囚われていた」と記されています。

それに対して、既成観念に囚われない不軽菩薩は、万人に仏性が内在することを
「礼拝・賛嘆」という具体的な行動によって、相手に理解させようとしたのです。

いったい法華経作成者は、不軽菩薩の行動を通して、未来の弟子に何を伝えようとしたのでしょうか。

考えてみれば、仏の教えが形骸化し、しかも増上慢が勢力を誇っている像法時代に、
不軽菩薩の観念に囚われない修行法を用いれば、経典の権威に執着する勢力からは、
強烈な反発や迫害があるのはむしろ当然といえます。

しかし、不軽菩薩はあらゆる迫害を耐え忍び、難を受けるという「逆縁」の方法によって、
人々を最終的に救済していったのです。

これは従来の伝統的な救済法とは対極にあるものです。

そもそも法華経における基本的な救済方法は〝逆縁〟ではなく〝順縁〟です。

つまり、相手の機根(能力)や志向性に応じて法を説き、迫害を招くことを極力回避するものです。
釈尊も多くの迫害に遭いましたが、その教化方法の基本は、相手の機根に応じてなされていました。

しかし不軽菩薩が実践した方法は、相手の機根や志向性を配慮せず、迫害を恐れず、
むしろ迫害を通して、相手に「仏縁を結ばせる」という逆縁の手法を用いたのです。

不軽品には「不軽菩薩は釈尊の過去世における姿である」と記されていますが、
やはり不軽菩薩の行動は、釈尊の化導法とは対極にあるものです。

これらのことから不軽品で説かれている仏道修行は、法華経全体の中では極めて異質なものといえます。