投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2016年 6月 8日(水)20時12分40秒   通報 編集済
【池田大作全集74巻】
創立六十周年祝賀の青年部記念幹部会 (1990年4月20日)より~(2/4)
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ところで、こうした″対話の力″を重視するデューイの思想には、ある大きな支えがあった。それは、デューイにとっては妻の祖父にあたる人で、学問もなく、字も読めない一開拓者の、何気ない一言である。
彼は、少数民族の失われゆく権利を守り、戦争に反対し、正義と平和の行動を続けてきた、勇敢な人間であった。

ある時、彼は会話のなかでこう語っていたという。
「こいつぁおれがおもいついたばっかしじゃしょうがねえ。いつかはひとさまにしらせなくっちゃあ」(鶴見和子『デューイ・こらいどすこおぷ』未来社)と。

いかにすばらしい思想であっても、自分の胸の内にあるだけでは、実証できないし、多くの人々の精神を高めていく力ともならない。
一見、何の変哲もないような言葉から、若きデューイは″対話の力″を尊ぶ思想への大きな示唆を得た。彼はこの無名の開拓者の、生きた″行動の哲学″を、大切に胸にあたため、やがて自身の哲学を開花させ、体系化していった。

■生き生きと自在に仏法を語れ

一流の人物は、いわば″眼のつけどころ″が違うものだ。平凡な日常のなかからも、″真実の声″を聴き取る、鋭敏な耳をそなえている。若き広布のリーダーである諸君も、こうした聡明さを身につけていただきたい。

いかに高邁な哲学、思想も、社会に広く開いていかなければ、それをつくりだした人の、たんなる「観念」にすぎなくなってしまう。たとえばプラトンやヘーグルなどの世界的な思想も、そのままでは一般的には理解されにくい面がある。そして、ともすれば、限られた一部の人の″自己満足″に終わりがちである。

ともあれ、思想を行動に移した人がいて初めて、プラトンやヘーゲルの思想も、真に開花したといえる。人間にとって、思想とは本来、そういうものでなくてはならない。

心の中で″これはすばらしい思想だ″と思いながら、他人に語らない人は、いわば″自分の言葉に責任を持ちたくない″独りよがりの人である。本当の意味で、思想に確信を持っていない人といえよう。

自分が良いと思うものは、他人にも語っていく。相手が理解できなければ、知恵をしぼり、表現を変え、少しずつでも導いていく。その対話のなかでこそ、理解と確信は深まり、思想は輝きを放っていくのである。

広布の活動にあっても同様である。「仏法は偉大である」「信心はすばらしい」――と思っても、それを私たちが語ることも、教えていくこともしなければ、周囲の人々はなかなか理解できるものではない。また、人々の機根がさまざまであることを思えば、納得性にあふれた対話を重ねていかなければならない。

当然、勇気がいるし、知恵がいる。それは決して平坦な道ではない。しかし、そうした真摯な、粘り強い対話にこそ、自身の成長もあり、正法の流布と発展があったことを、忘れてはならない。

また、時代の変化は速い。これまでの常識が、たちまち通用しなくなっていく。当然、広布の推進のうえでも、従来にもまして、新たな創造への「知恵」が不可欠となる。

その意味で諸君は、決して一定の″型″のみにとらわれたリーダーであってはいけない。深遠なる仏法を研鑽し、自分のものとしていく。表現にも新たな生命を吹き込み、生活のうえに、現実のうえに、社会のうえに″再生″させていく「知恵」を持っていかねばならない場合があるだろう。
では、そうした「知恵」はどこに生まれるのか。――それは、真剣なる求道と、布教の実践のなかにあらわれる。

草創の同志の方々も、そうであった。当時、有名な学者と堂々の確信で対話し、折伏した、無名の一婦人のことを思い起こす。彼女は学者に匹敵するだけの知力を持っていたわけではない。しかし、妙法流布へのひたぶるな情熱と、仏法への確信から生まれた「知恵」の光が、相手の無明の闇を明るく照らしだしたのである。

若き時代の今こそ、広宣流布を成し遂げゆかんとする責任をもって、必ず人をして「納得」させ、みずからの「勝利」へと進むところに、磨きに磨きぬかれた知恵の涌現があることを自覚されたい。

そして、どうか多くの友の心に染み入る表現力、説得性とともに、複雑な社会のなかに、現実の生活のなかに、みずみずしき知恵の波を起こしていただきたい。

(続く、明日以降の予定)