投稿者:JACK 投稿日:2016年 5月21日(土)11時24分16秒   通報 編集済
次に、創価学会より公明党をなぜ誕生させたか。
これについて、多少むずかしい論理になりましたが、立正安国・王仏冥合の原理を通して、その意義を明確にしておきたいと思います。
なぜなら、立正安国こそ、日蓮大聖人の教えの根幹であり、私どもの実践の基本原理であることには変わりはないからであります。
日蓮大聖人の仰せは、”安国”を実現するためには、根底に”立正”がなくてはならないということであります。
立正とは正法を立てることであり、色心不二の生命哲学をもってする、未曾有の宗教革命のことであります。
これは、個人の内面の信仰の次元であります。
安国とは社会の繁栄であり、民衆の幸福、世界の平和であります。
立正が宗教の次元であるのに対して、安国は社会の次元であります。
故に、安国の直接的に拠って立つ理念は何かといえば、それは生命の尊厳の理念であり、人間性の尊重、絶対平和主義の原理であります。
《立正と安国の接点をなすもの》
これらの理念は、宗教のいかんにかかわらず、人種、民族、イデオロギーのいかんを問わず、人類に普遍する理念であります。
いいかえると、人間の生存の本質から出てくるものといってよい。
一切は、この”人間主義”から出発するのであります。
宗教もまた、この生存の本質たる理念を究明していくものであります。
すなわち、この理念を掘り下げ、確固たる実体を与えたのが、日蓮大聖人の仏法であり、それを信ずるのが、私どもの信仰であります。
したがって”立正”と”安国”の接点は、これらの理念であり、しかも信仰は、それ自体が直接、社会的な行動にあらわれるのではなく、人格の陶冶(とうや)を通じ、具体的には、生命の尊厳等の理念の反映としてあらわれてくるものでなければならない。
この原理は、すでに私どもが信仰と生活、仏法と社会の関係として、日々、実践している通りであります。
すなわち、社会的活動の次元には、宗教性を持ち込む必要は毛頭ないし、むしろ、直接、持ち込むことは、信心即生活の誤った解釈であり、立正安国、王仏冥合の原理から、の逸脱といっても過言ではありません。
したがって、生命の尊厳、人間性の尊重、絶対平和主義という普遍的理念をいかにして具体化するかという”技術”が、政治の次元の課題となるわけであります。
我々が公明党を誕生させたのも、その理念を政治の分野に実現してほしいという純粋な気持ちからであり、その願いは今なお一貫して変わっておりません。
公明党は、安国の次元に立つものであり、立正を問題にする必要はない。
むろん、個人として立正を確信することは信教の自由であるが、党としては一切、宗教上の問題を政治の場で論議する必要はない。また、あってもならない。
また宗教上の目的を党の目標とする必要もないし、すべきでもない。
あくまでも、現行憲法の定めたる信教の自由を遵守し、宗教的には中立を貫き、政教分離でいけばよいと思うのであります。
ただし、生命の尊厳を根本に人間性の尊重、絶対平和の実現という理念・理想だけはどこまでも堅持しきっていく政党であってほしい。
そのかぎりにおいて、同じ志に立つ、優れた人物を、公明党として推薦することにも、我々はなんら意義はないし、選挙にあっても喜んで応援することもあるでありましょう。
公明党が宗教的中立に立ち、宗教上の目的を政治の場で追求するものでないからといって、公明党の存在意義がいささかも減少するものでないことは、以上のことから考えていただければ、明白であろうと思いますが、いかがでありましょうか。
逆説的ないい方をすれば、もし公明党がなければ、これだけの庶民大衆のエネルギーは、現在の政治地図のなかに、確固たる位置を占めるまでにはいたらなかったはずであります。
大部分が政治的無関心層として姿を没してしまったか、あるいは日本の社会に亀裂を深めていく作用をしていたかもしれません。
以上は、政治の分野を一例として申し述べましたが、更に王仏冥合の原理について論及しますと、立正安国の”立正”が王仏冥合の”仏”であり、”安国”が王仏冥合の”王”になります。
仏法でいう王とは、全民衆、全社会を包含した内容であり、もはや、国王を指すものでもなければ国家権力でもない。
現代的にいえば政治、教育、文化等、社会全般のことを指すと考えるべきでありましょう。
主権在民の現代では、民衆が王であり、社会が王なのであります。
故に、現代においては、単に政治という限られた分野にとどまることなく、より広く民衆、社会のあらゆる分野にわたって、底流を築き、その上に、広範な、新しい社会の建設、文化の建設がなさせる時代であることを訴えたいのであります。
また、王仏冥合、立正安国が、あくまでも宗教による人格の陶冶を基盤とするものであり、直接、社会的次元の活動に信仰を持ち込むのでないことは、政教一致との根本的な違いであり、政教分離の原則に立つものであることも、ここに明確に申し上げておきたいのであります。