投稿者:臥子龍メール 投稿日:2016年 8月30日(火)17時15分16秒   通報
色々な考察

谷川氏は浅見副会長を追い落とすため、北林の以前使った、「地涌からの通信」宜しく「天鼓」で見事に追い落とし、会長の道を一歩前進させた。
後は正木をどう排除するか?

世界宗教化をどう構築するかを模索中の原田会長や八尋、秋谷にとって、原理主義的に三代会長に絶対の信を置く正木は、今後決して組することは無いと判断し、谷川等の中堅、若手等と共謀し、無事彼を更迭することに成功する。

ここに谷川の会長への道が開けてきたように思えたが、以前より続く波田地氏との一連の問題が無視できなくなり、名誉棄損の訴えを起こすことになったのだが、逆に墓穴を掘ることとなり、会長への道は遠のいたようである。

世界宗教を標榜するにあたり、本来、大聖人の仏法では、相対論で構築されているが、「独一」という特殊性を持つ戒壇の御本尊は、これしかないとの立場であり、それを日寛教学が裏付ける。
「独一」と「相対論」では整合性が取れず、矛盾し、袂を分かつしかなくなる。

また、独一本門戒壇の御本尊とそれを裏付ける日寛教学は富士大石寺に従属を強いる。
従属されず、独自の道で世界宗教とするには本門戒壇の御本尊と日寛教学は無用であるとするしかない。

無論、富士大石寺とは無関係としたいが故、充分に準備を重ねることなく功を焦り、論理的に無理が生じ、三代秘宝の破壊等々に連なり、
大聖人のお手書の御本尊はどれも等しく本門の本尊であり、これに唱える題目も本門の題目である、とまるで、身延と同じようになってしまったのは、「独一」と「相対」の立て訳に行き詰ってしまったからである。

故に、御本尊の認定の権能は会長にあるとし、日昇御本尊への転換を図ったが、戒壇御本尊の書写であるため、つじつまが合わず、未だに決定できないでいる。

絶対的平和を主張する池田思想は世界の国々で称賛を受け、その為に多くの表彰を受け、未だに代理で受け取っているのだが、世界宗教を標榜するにあたって、その国の政権中枢と相反していては進まない。

現実的に積極的平和主義を掲げ、軍隊を容認し、大規模にならなければ多少の戦禍は仕方がないとしている。

当然のこととして、絶対的平和主義はこれを阻む原因と成り得る。
したがって、過去の池田先生の講演、論文、指導等に都合が悪いと思われる箇所は削除になる。

そのうち「戸田の命より大事な学会の組織」、「大聖人御遺命の広宣流布」と言う錦の御旗の下、三代会長に絶対的な信を置くものは様々な理由で排除され続けるであろう。

「核を使うものはこれサタンであり・・・・。」も核により紛争の抑止力となっているのであるから、必要であり、時代と言う間尺に合わなくなったので、削除すると言うことにもなろうか。

「独一」、「絶対的」ではなく、「相対」、「現実的」
これが、54年問題と重なるためややこしくなるのだろう。

また、海外の運営はかなりいい加減になっており、幹部個人の私腹を肥やすことに何の躊躇もなくやりたい放題である。

元凶は学会首脳から本部職員、地方幹部に至る堕落にある。
経済的に恵まれ、子弟を学園に行かせ、将来の暮らしに重きを置く個人・拝金主義思想が背後にあり、少欲知足とは無縁のエゴ集団と化している。

何故、世界宗教を標榜しなければならないのか?
それは、国内の会員の増加が減世帯に比べて少なく、このまま行けば30年後は今の有効世帯の半分の勢力になってしまうという危機感があり、産業界とおなじように海外に活路を見出して一定の収入、人員を確保するためであろう。

故に各国の法人の代表には自由裁量が付与されているのだろう。

池田先生は神格化され、至言は直弟子の原田会長だけが魂魄にそれを留め、唯授一人として、指導し、仰がれる。
だから、自然と中堅、若手、が「会長は偉い人なんですよ」と言っておけば、会長からは可愛がられ、出世の道も見えてくる。

五丈原は戸田先生がご自分の事に心を寄せられたのではなく、池田先生が54年そして再び、弟子に裏切られた無念の思いを偲ばれて号泣されたような気がする。

正木さんが若い時「正木、お前は会長にはなれないよ」と先生がおっしゃったと伺ったことがあったが、戸田先生、池田先生伴に優れた炯眼の持ち主だと思う。

絶対的平和主義を師匠の遺言とし、自分のライフワークの中心にする人と抑止力で積極的平和主義を標榜する人と同じ船に乗れるか?

その一人の為、時間と労力を尽くし、喜んでもらえ、結果とし自分も喜びを感じられる
不求自得の人か、現世利益と数に魅了され、組織の中をうまく泳いでいく人か。

選択は意外と早くに訪れる。
我本行菩薩道、長行読んだ方がいいように感じる。

おかしな処があれば、手直し下さい。