投稿者:無冠 投稿日:2016年 8月25日(木)00時02分35秒   通報 編集済

全集未収録のスピーチ144編の各抜粋(聖教新聞 2006.5~2010.4)を掲示します。

2007-11-6 【関西最高協議会】

■ 一、常勝関西、万歳!
 常勝関西、おめでとう!(大拍手)
 七年ぶりに、大好きな関西の地に、ついに来ることができました。お元気な皆様にお会いできて、うれしい! 本当にうれしい!(大拍手)
 わが関西は、一年ごとに大発展し、それはそれは、盤石にして完璧なる「常勝不敗の大城」をつくり上げてこられた。
 素晴らしい大関西になった。
 二十一世紀に入ってからも、関西の同志は、あらゆる広宣流布の戦いを、一切、威風堂々の完全勝利で勝ってくださった。私は、心から、うれしく思っております。
 これからも、関西が、ありとあらゆる次元から見て、日本全国、いな、全世界の模範となり、手本となって、広宣流布のために、光り輝く創価の大前進をされゆくことを祈りたい。

●常勝第2幕を!
 一、仏法は勝負である。
 勝てば、皆が歓喜し、誇りにあふれる。
 負ければ、人にみくびられ、ばかにされる。
 戦うからには、断じて勝たねばならない。
 ともあれ、きょうは、久方ぶりに、関西の最高協議会に参加することができた。
 関西は、「わが家」である。家族の集いである。楽しくやりましょう!
栄光の「常勝第2幕」が晴れ晴れと開かれたことを、互いに喜び合いたい(大拍手)。

 一、「新しい時代」である。「新しい発想」で、「新しい人材」に光を当てながら、「新しい陣列」を築き上げたところが、必ず勝利する。
 どうか、今回はお会いできなくとも、思い出多き同志の方々に、くれぐれも、よろしくお伝えください。
 「関西」と聞くと、あの友、この友の懐かしいお顔が、すぐに思い浮かぶ。
 今も、草創の同志が、第一線でかくしゃくと頑張ってくださっている。さらに、後継のご家族が立派に戦っておられる。私は本当にうれしい。
 さすが関西と、喝采を贈りたいのである(大拍手)。
 また、とくに、深き真心で、題目を送ってくださっている婦人部、女子部の皆さま方、本当にありがとう!

●強くあれ!
一、人生には、喜びの山もあれば、苦しみの坂もある。
 何が本当の幸福となるのか。
 たとえ、幸せそうな結婚をしても、現実は、不幸のどん底という場合もある。一方、独身で毅然と幸福を勝ちとっておられる方々も多い。
 所詮は、だれかに幸福にしてもらうのではない。自分自身が強くなるしかないのだ。
 そして、創価学会という麗しき”家族”のなかで、広宣流布に生き抜いていく。これ以上の幸福はないことを知っていただきたい。
 ともどもに、仲良き関西家族として、わが人生を勝ち抜いていきましょう!
 頼むよ!

 一、仏法の根本は、「恩を知り」「恩に報いる」ことである。
 信心の世界で、学会に、先輩に、お世話になってきた分、妙法に尽くし、同志に尽くしていく。それが創価学会の心である。
 反対に、同志のおかげで社会的に偉くしてもらったにもかかわらず、見えっ張りになり、有頂天になって、創価学会を下に見るならば、何という増上慢か!
 こうした恩知らずを、関西は絶対に許してはならない。

●わが身を削って
 一、私は、戸田先生に報恩の誠を尽くしてきた。ご家族も真剣にお護りしてきた。
 一点の悔いもなく「師弟の道」を歩んできたと、私は、御本尊の前で誓って申し上げることができる。
 わが師が苦境にあったときである。師匠が難に遭い、苦しんでいるのを、面白がって見ている幹部がいた。
 師匠を倒せば、自分が威張れる。そういう醜い魂胆の幹部もいた。
 人間の心は怖い。心で決まる。「心こそ大切なれ」(御書1192ページ)である。
 私にとって信用できるのは、戸田先生だけであった。

 苦難の烈風のなか、戸田先生は私に言われた。
 「君が一人いればいいんだ!」「大作、頼んだぞ!」と。
 私は、一人、敢然として、忘恩の人間、裏切りの輩と戦い抜いてきた。
 宗門と退転者が結託した、学会乗っ取りの陰謀も、断固と打ち返し、勝ってきた。
 書いて書いて書き続けて、著作の印税も、学会や創価学園、創価大学などのために使ってきた。
 疲れ切った体で、夜遅くまで、小説や詩を口述し、それを、妻が書き取ってくれたことも、たびたびである。
 いずれにせよ、自分のために何かを残そうという考えなど、まったくなかった。
 わが身を削って、世界一、宇宙一の人間主義の組織をつくってきたのである。
 大切な関西の皆さんだからこそ、明快に申し上げておく(大拍手)。

●関西が師弟の心を護り抜け
 一、牧口先生と戸田先生。 戸田先生と私。
 ここにのみ真実の師弟がある。
 そして、いよいよ関西に、本物の「師弟」の人材城を築き上げていく時である。
 東京など、はるかに見おろして(笑い)、関西が一段と模範になっていく時代に入ったと、私は宣言したい(大拍手)。
 関西が、私の後を継いで、「師弟」を叫びきっていくのだ。
 関西が、一致団結して、本当の「師弟の魂」を護っていくのだ。
 それが、わが関西の決心であり、誓いであっていただきたい。

●生命を賭して苦境を打開
 一、日蓮大聖人の仏法を広宣流布しゆく原動力は、何か。
 それは「師弟不二」の大闘争である。
 記録によれば、二祖・日興上人が日蓮大聖人に初めてお会いし、大聖人の弟子となられたのは13歳のころとされる。
 伊豆流罪の法難の際、大聖人にお仕えし、大聖人をお護りしたのも、若き日興上人であられた。
 師匠と艱苦を共にする。弟子として、これほどの名誉はない。
 日興上人は、大聖人のもとで薪水の労を取るかたわら、時には周辺の地域にまで足を延ばし、弘教に励まれた。熱海では真言の僧を破折し、大聖人に帰伏させたとも伝えられる。
※薪水の労=炊事などの労働。転じて、人に仕えて骨身を惜しまない働きをすること。奥の細道「芭蕉の下葉に軒をならべて、予が-をたすく」(広辞苑より)
 どんな困難な状況にあっても、徹して師に仕え抜く。雄々しき言論の闘争で、敵をも味方に変えていく──。
 戸田先生の事業が最も苦境にあった時、私は、こうした日興上人の闘争を深く心に刻んだ。
 そして、先生に広宣流布の指揮を自在に執っていただくことをひたぶるに祈りながら、師を厳護し、生命を賭して、苦境の打開への道を開いていったのである。

●身近な所から友情の拡大を
 一、大聖人が赦免になり、伊豆から鎌倉に戻られると、日興上人は駿河(現在の静岡県の一部)・甲斐(現在の山梨県)方面にたびたび足を運ばれ、折伏を推進された。
 この方面は日興上人が生まれ育った地域であり、親戚も多数おられた。幼年期からの友人や知人も多かったと思われる。
 日興上人は、御自身に緑の深い土地を起点として、新たな「拡大」の突破口を開かれたのである。
 広宣流布とは、正義の大波を、身近な足元から広げていくことだ。
 身近な友と信頼を結び、わが地域に対話の花園を広げていく。仏法の慈悲の精神を社会に生かし、展開しゆく創価学会の運動こそ、最も道理に適った「仏法即社会」の前進なのである。
 日興上人は、大聖人の佐渡流罪にあっても、身に影の添うがごとく師にお供された。
 そして佐渡流罪を終えて、大聖人が身延に入られると、駿河・甲斐方面の弘教に全力を注がれたのである。
 この一帯は大聖人がおられる身延とは距離が近く、連絡を取ることも比較的容易であった。日興上人は、いざとなれば、いつでも師匠のもとに馳せ参じることができた。
 師の心をわが心として、広宣流布の新天地を開拓する。そして、勇んで勝利の結果を師に報告する──。
 日興上人の法戦には「師弟の精神」が脈動していた。
 日興上人に、後の第三祖・日目上人が、自ら入門を願い出たのも、このころである。
 この時、日興上人は二十九歳。日目上人は15歳であられた。
 一説には、学匠と仰がれていた人物を日興上人が破折するのを目の当たりにし、深く心を動かされて入門を決意したと伝えられている。
 ともあれ、若き日興上人の御活躍によって、大聖入門下が続々と誕生した。
 次代を担う新たな「人材」が、澎湃として躍り出てきたのである。
※澎湃=水のみなぎりさかまくさま。転じて、物事が盛んな勢いで起るさま。「世論-として起る」(広辞苑より)

●「人脈」を活用
 一、日興上人は、どのようにして目覚ましい拡大を成し遂げていかれたのであろうか。
 いくつか要点を挙げてみたい。
 まず、日興上人は御自身の人脈を存分に活用しながら、一人また一人と対話を交わし、仏縁を結んでいかれた。
 日興上人の親戚は、多くが入信している。
 富士南部の弘教の中心者となった高橋六郎兵衛入道も、日興上人の化導で入信した。この高橋入道の妻は、日興上人のおばであった。
 また縁故のあった、実相寺の筑前房らも日興上人の弟子になっている。
 松野家、南条家やその縁者、また旧友たちにも、弘教が広がっていった。
 さらに、実相寺の肥後公、四十九院の日源らが、日興上人の弘教で入信している。
 そして、日興上人が妙法に帰依させた人々が、さらに自身の縁者を折伏した。人脈は、次から次へと広がり」拡大が進んでいったのである。
 日興上人とその門下によって、妙法の種が蒔かれた地域は、東北から、信越、関東、東海道、中部、関西、中国、四国、九州と、ほぼ全国に及んでいる。
 新たに入信した人々の立場は、武士やその家人、農民など多彩であった。「一対一の対話」によって、広宣流布は水かさを増していったのである。

●身近な所から友情の拡大を
 一、大聖人が赦免になり、伊豆から鎌倉に戻られると、日興上人は駿河(現在の静岡県の一部)・甲斐(現在の山梨県)方面にたびたび足を運ばれ、折伏を推進された。
 この方面は日興上人が生まれ育った地域であり、親戚も多数おられた。幼年期からの友人や知人も多かったと思われる。
 日興上人は、御自身に緑の深い土地を起点として、新たな「拡大」の突破口を開かれたのである。
 広宣流布とは、正義の大波を、身近な足元から広げていくことだ。
 身近な友と信頼を結び、わが地域に対話の花園を広げていく。仏法の慈悲の精神を社会に生かし、展開しゆく創価学会の運動こそ、最も道理に適った「仏法即社会」の前進なのである。
 日興上人は、大聖人の佐渡流罪にあっても、身に影の添うがごとく師にお供された。
 そして佐渡流罪を終えて、大聖人が身延に入られると、駿河・甲斐方面の弘教に全力を注がれたのである。
 この一帯は大聖人がおられる身延とは距離が近く、連絡を取ることも比較的容易であった。日興上人は、いざとなれば、いつでも師匠のもとに馳せ参じることができた。
 師の心をわが心として、広宣流布の新天地を開拓する。そして、勇んで勝利の結果を師に報告する──。
 日興上人の法戦には「師弟の精神」が脈動していた。
 日興上人に、後の第三祖・日目上人が、自ら入門を願い出たのも、このころである。
 この時、日興上人は二十九歳。日目上人は15歳であられた。
 一説には、学匠と仰がれていた人物を日興上人が破折するのを目の当たりにし、深く心を動かされて入門を決意したと伝えられている。
 ともあれ、若き日興上人の御活躍によって、大聖入門下が続々と誕生した。
 次代を担う新たな「人材」が、澎湃として躍り出てきたのである。
※澎湃=水のみなぎりさかまくさま。転じて、物事が盛んな勢いで起るさま。「世論-として起る」(広辞苑より)
■ 「人脈」を活用
 一、日興上人は、どのようにして目覚ましい拡大を成し遂げていかれたのであろうか。
 いくつか要点を挙げてみたい。
 まず、日興上人は御自身の人脈を存分に活用しながら、一人また一人と対話を交わし、仏縁を結んでいかれた。
 日興上人の親戚は、多くが入信している。
 富士南部の弘教の中心者となった高橋六郎兵衛入道も、日興上人の化導で入信した。この高橋入道の妻は、日興上人のおばであった。
 また縁故のあった、実相寺の筑前房らも日興上人の弟子になっている。
 松野家、南条家やその縁者、また旧友たちにも、弘教が広がっていった。
 さらに、実相寺の肥後公、四十九院の日源らが、日興上人の弘教で入信している。
 そして、日興上人が妙法に帰依させた人々が、さらに自身の縁者を折伏した。人脈は、次から次へと広がり」拡大が進んでいったのである。
 日興上人とその門下によって、妙法の種が蒔かれた地域は、東北から、信越、関東、東海道、中部、関西、中国、四国、九州と、ほぼ全国に及んでいる。
 新たに入信した人々の立場は、武士やその家人、農民など多彩であった。「一対一の対話」によって、広宣流布は水かさを増していったのである。

●大聖人直結の祈りと戦いで
 一、日興上人の拡大の戦いは、どこまでも「師弟不二」に徹していた。
 それは、師恩にお応えせんとする、ひたぶるな弟子の戦いであった。
 日興上人は門下にあてた御手紙で述べておられる。
 「この大聖人の法門は、師弟の道を正して、成仏していくのである。
 師弟の道を、少しでも誤ってしまえば、同じく法華経を持っていても、無間地獄に堕ちてしまうのである」
 日興上人は、師匠である大聖人に心を合わせ、師の仰せ通りに戦い、妙法を広められたのである。

●「日蓮の弟子」と誇りも高く
 一、日興上人は国主諌暁のため、幾度も「申状」を幕府や朝廷に提出されている。
 そのうち現存するものは、正応2年(1289年)、嘉暦2年(1327年)、元徳2年(1330年)の3通である。
 そのいずれの申状でも、日興上人は、御自身のことを「日蓮大聖人の弟子」と、誇り高く明記されている。そして「民衆の安穏と幸福のために、邪法を捨てて正法に帰依すべきである」との師の教えを、一点の曇りもなく訴えておられる。
 この点、権力の弾圧を恐れて「天台沙門(天台の一門)」と称した、五老僧たちの妥協と迎合、保身と臆病の態度とは、天地雲泥の違いがあった。
 日興上人は、大聖人滅後に師に違背した五老僧について、「『師を捨ててはいけない』という法門を立てながら、たちまちに本師(日蓮大聖人)を捨て奉ることは、およそ世間の人々の非難に対しても、言い逃れのしようがないと思われる」(編年体御書1729ページ、通解)と厳しく指弾されている。
 五老僧を破折した「五人所破抄」には、日興上人の峻厳なる叫びが記されている。
 「ただ題目の五字を唱え、たとえ三類の強敵による難を受けても、諸師の邪義を責めるべきである。このことは、法華経の勧持品第十三や常不軽菩薩品第二十に明確に説かれていることであり、上行菩薩の再誕として出現され弘教された日蓮大聖人が、現証をもって示されたことである」(御書1614ページ、通解)
 この大聖人と日興上人の師弟の闘争を受け継ぎ、三類の強敵の大難を勝ち越えて、正法を私通し抜いてきたのは、だれか。それは、創価の三代の師弟である。
 そして、その師弟の真髄の精神が、どこよりも生き生きと脈動している天地こそが、常勝関西なのである。
 広宣流布の第2幕とは、弟子が戦い勝つ時代である。その大行進が、今再び、我らの大関西から悠然と始まったということを、私は高らかに大宣言させていただきたい(大拍手)。

●境涯を広げればすべてが楽しい
 一、組織のなかには、”どうしても、自分と合わない人”がいる場合がある。
 お互いに、そう思い合っていることもある(大笑い)。
 しかし、「嫌だな」と思っても、こちらから相手を変えることは難しい。人間の性格は、なかなか直らない。皆さんもよくご存じの通りだ(笑い)。
 では、どうするか。
 「自分が変わる」ことだ。自分が大きくなるのだ。境涯を広げて、自分自身が楽しく戦えるようにしていくのだ。そのほうが利口である。皆のためになる。
 御書には「桜梅桃李の己己の当体を改めずして」(784ページ)との有名な御文がある。学会にも多種多様な人が集まっている。
 だから広宣流布が進むのだ。一切衆生の成仏を説ききった仏法である。「自分とは合わないな」と思う人とも、一緒に戦っていくことだ。
 「異体同心」とは、「心」が一致することである。皆が勝つために。皆の幸福のために。広布のために、心を一致させれば、勝利に向かう。
 その意味で、関西の同志は、”世界一の模範の家族”であると思う(大拍手)。
 私は、「関西、頑張れ!」と叫びたい。いよいよ総仕上げの、一歩前進の指揮を関西の友と執っていく。できることは、全部するつもりだ。 壮大なる「常勝関西」をつくろう!
 結びに、全関西の最前線の偉大な同志が、一人ももれなく、大いなる喜びと勝利の人生を歩みゆかれることを、お祈り申し上げます。

  天高く
   富士の如くに
   常勝の
  大関西の
 同志の姿も

 この一首を贈り、私の記念のスピーチとさせていただく。
 きょう、お会いできなかった同志の皆様に、くれぐれもよろしくお伝えください。ありがとう。本当にありがとう!(大拍手)