投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 1月31日(土)14時17分48秒  

会則変更の解説読みました。今回の教義の解釈の変更での変更点は、一言でいうならば「大御本尊という概念の消滅」にある。
「日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、すべて根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたものであり、等しく『本門の本尊』である」とあるように、御本尊には大も小もなく、すべて同じであると。

もちろん御本尊によって、功徳が変わることなどなかろう。それは大御本尊とて同じである。それではなぜ、「大」御本尊にこだわってきたのだろうか。日寛教学自体に欠陥があったということか。そして、戸田先生の指導も、仮の教えであり、方便であったということなのか。僧俗和合時代に、創価学会も戒壇の大御本尊を絶対無二として、法を弘めてきた経緯はどうなるのか。大聖人の仏法に違背した教えを弘めていたということなのか。

解釈変更するのなら、過去が誤りであったことを認めなければならないでしょう。いろいろ調べた結果、御書には書かれていなく、実は、「違っていました」ではすまない話である。莫大な費用で建立した正本堂も、意味のないものであったことになる。

昨日、折伏した友人(2000年前半に入会)から連絡がきた。今回の改正の件で、説明会があったようで、そこで言われたことが「改正に批判的な人の言葉に惑わされないように、相手にしないように」と。また、解説を読んでも、いろんな幹部に指導を受けても、それらしい言葉は並ぶが、心が晴れないと。純粋な会員が、困惑・混乱・モヤモヤしている事実がここにあります。

盛んに「責任」を強調していますが、すっきりした気持ちで信心できなくなってしまった会員へのケアをどのように考えているのか。何年も、毎日御観念文で「大御本尊に南無し奉り」と、祈念してきた会員の純粋な信仰心は一体どうなるのか。「御本尊のガラガラポン」をやられて、困惑しないほうがおかしいというものでしょう。

こういう問題では活動家(組織人間)ほど、切り替えが早いものです。教義よりも、目の前の戦いのほうが重要なのが、組織人間の思考の特徴だからです。細かいことなど気にしてはいられないのが、学会の活動家幹部(忙しい・余裕がない)なのであります。

見切り発車の変更により、苦しむ会員がでてしまっている事実を、当然「責任感」のある執行部は想定していることでしょう。会員一人ひとりの信心が揺らいだり、不信感をもってしまうことを、心配で心配でたまらないはずです。それだけ大きなものを動かし、引くに引けない状況になったわけです。人の心を大切にするのが仏法者です。会員のケアは現場まかせということではありませんよね。それだけの責任感があるのなら、当然周到な準備をしていますよね。

ルビコンの河を勝手に渡ってしまった創価学会。過去との整合性を無視し、仏意仏勅をいいことに暴走し、いたずらに会員を困惑させる執行部。そこに正義はあるのかね。尻拭いもできないのに、よくもまあ、ドヤ顔解説きめてくれました。「当然」という言葉が鼻につく。その裏で苦しんでいる会員がいることを、くれぐれもお忘れのないよう、お願いしたいものである。