投稿者:無冠 投稿日:2016年 8月17日(水)07時55分27秒   通報
全集未収録のスピーチ144編の各抜粋(聖教新聞 2006.5~2010.4)を掲示します。

2007-8-20 【名誉会長 終戦六十二年に念う】(全文掲載)

勇敢に 断固と恐れず 指揮を執れ
平和の革命 我らの大正道を

6千万人の命を奪った第2次世界大戦
戦争ほど残酷なものはない
  権力の魔性を許すな 戦争の愚劣さと欺瞞を暴け

  《 悲劇なる 歴史の彼方に 栄光の
      平和の舞台の 原点 創れや 》

 今年は終戦から62年。第2次世界大戦で犠牲になられた方々は、じつに六千万人にも及ぶと言われる。
 8月15日の終戦記念日には、日本そして全世界のすべての戦没者の方々に、私は妻とともに懇ろに追善回向の題目を捧げさせていただいた。
 学会本部では、青年部を中心に「世界平和祈念 戦没者追善勤行法要」が厳粛に執り行われた。昭和48年(1973年)に、私の提案で始まった行事である。
 わが青年部は、不戦の誓いと祈りを、厳として継承してくれている。
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 わが家も、長兄の喜一(きいち)がビルマ(現ミャンマー)で戦死した。29歳の若さであった。
 まじめで誠実な、12歳年上のこの長兄を、私は心から慕っていた。
 長兄の出征は昭和12年(37年)の春。リウマチの大病を患っていた父が、ようやく回復へ向かいつつあった矢先であった。
 一家の若き柱として家計を支えていた長兄を、突然、軍隊に奪われたのは大きな打撃だった。
 さらに翌年の昭和13年(38年)春には、次兄の増雄(ますお)と三兄の開造(かいぞう)が相次いで徴兵されていったのである。
 小学5年生の私も、海苔製造の家業を手伝い、6年生からは、新聞配達も始めた。
 昭和19年(44年)4月には、すぐ上の四兄・清信(きよのぶ)が出征。軍用列車に乗り込む兄を品川駅で見送った。勇ましい「若鷲の歌」が響くなか、「体だけは大事にね。生きて帰ってはしい」と父母の心を真剣に伝えた。
 4人の息子を軍隊に送り出した母は「軍国の母」、わが家は「出征軍人の家」として讃えられることになった。
 しかし一家の心には、どれほど、言い知れぬ、苦痛と悲嘆と不安が渦巻いていたことか。

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 長兄は昭和16年(41年)7月、一時除隊をして、嬉しそうに、楽しそうに、わが家に帰ってきた。紳士の姿であった。再び出征することになって、心配そうに私に言った。いや、言い残した。
 「うちに残って両親の面倒を見てあげられそうなのは、どうやら、おまえだけだ。両親を頼んだぞ。弟や妹もな」
 4人の兄が戦地に行ってしまい、寂しかったが、私は、懸命に病の父を支え、老いゆく母と幼い弟妹たちを護っていった。
 国民学校を卒業すると、3番目の兄が勤めていた蒲田の新潟鉄工所で働く日々となった。当時、ディーゼル機関を製造する軍需工場であった。
 「せめて休さえ頑健であってくれたなら……」
 肺病だった私は、つねに体が熱を帯び、血痰を吐きながらの奮闘となった。あの時、それはそれは親身になって気遣ってくださった看護師のご婦人の真心には、今もって感謝している。
 昭和20年(45年)──「終戦の年」の年初には医師から鹿島の結核療養所に2年間、入るよう強く勧められた。しかしベッドの空きがなく、入院の順番を待っているうちに空襲があり、話は立ち消えとなった。

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夜の空爆の中をわが家は、もともと東京の蒲田区(現・大田区)糀谷(こうじや)3丁目の2階建ての屋敷に住んでいた。
 広い敷地には鯉や鮒が泳ぐ大きな池があり、楓や欅や桜、さらにイチジクやザクロも植えられていた。
 とんぼ捕りなど、幼き日の楽しい思い出が光るこの家も、昭和13年(38年)、兄たちの出征と相前後して人手に渡り、軍需工場へと変わった。
 昭和20年(45年)3月の東京大空襲では、江東方面で10万人もの命が奪われた。寒い夜であった。
 そしてまた4月は東京南部にも大空襲があり、命からがら逃げ延びた。
 年老いた夫婦たちが、恐怖に怯え、夜中の空爆のなかを曲がりくねりながら逃げていった、あの哀れな姿は、永遠に忘れることはない。
 糀谷2丁目に移り住んだ立派な家も、東京大空襲の後、空襲の類焼を防ぐために取り壊されることが決まり、強制疎開させられた。そこで、当時、田園が広がる大森区(現・大田区)馬込(まごめ)のおばの家に、一棟建て増しさせてもらい、移り住むことになった。
 5月24日。新しい家ができあがり、荷物もリヤカーで運び終え、あすから皆で暮らせるという、その夜のことだった。
 「落っこちた! 落っこちた!」と、防空壕の皆が騒ぎ始めた。
 無情なる空襲によって焼夷弾(しょういだん)が、わが家に命中した。完成したばかりのわが家は全焼してしまったのである。父と母が人生をかけて築き上げてきた大切な幸福の城を、戦争は、ことごとく破壊してしまったのである。
 なんとか運び出した長持ちに入っていたのは、たくさんの「ひな人形」だった。それでも、「このおひなさまが飾れるような家に、きっと住めるようになるよ」と皆を励ましてくれる母の明るさが、わが家の希望の光となった。

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 その後、急ごしらえのバラック住まいで迎えたのが8月15日の「終戦の日」。暑いほど晴れわたる夏空の日であった。
 ラジオの玉音放送は、ザーザーと雑音が入って何を言っているのか、わからなかった。勝ったのか、負けたのかも、全く、わからなかった。
 弟が、どこかで聞いてきたのか、「日本が負けた、日本が負けた」と、泣きながら、わめきながら帰ってきた。
 「ああ、戦争が終わった……」。ほっとしたというのが、私の正直な実感であった。病気との戦いで、身体的にも、ぎりぎりの限界にきていたからである。
 もはや空襲の飛行機の音を、気に病む必要もない。「こんなに静かなのか」という安堵感が心に大きく広がった。
 灯火管制も解け、自由に明かりをつけることができた。母は「明るいねえ。電気がついたよ。明るいね」と乙女のように喜びながら夕食の支度をしてくれた。
恐ろしい大空襲で残ったのは「ひな人形」
母は語った
「このおひなさまが飾れる家にきっと住めるようになるよ」
?

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青春の誓い
 日本が戦争に負けた夏、父は57歳。母は49歳。私は17歳だった。
 父は顔を紅潮させて、兄たちの名前を一人一人挙げながら、「みんな、帰ってくるよ。ビルマから1人、中国から3人、帰ってくるよ」と、嬉しそうに、そして涙を流しながら叫んでいた。
 しかし──出征した兵士たちの復員が始まっても、兄は、なかなか帰ってこなかった。
 三兄の開造が復員したのは、昭和21年(46年)の1月10日。
 四兄の清信は、同8月17日。栄達失調で、あまりにも痩せ衰えた姿であった。中国の戦地からである。
 さらに、その1カ月後の9月20日には、次兄の増雄が帰還した。これも中国からである。
 父も母も、そして私たち兄弟も、ひたすらに、長兄の帰るのを待ち続けた。
 いつか、いつかと待ちわびて、終戦から2回目の夏を迎えようとしていた昭和22年(1947年)の5月30日。戦死公報が届いた。昭和20年1月11日、ビルマで戦死──とあった。
 その通知を握りしめ、小さくなった体を震わせて働哭していた母の後ろ姿が、私の瞼から消えない。
 わが家だけではない。このような悲劇が、どれほど多くの家庭に襲いかかったことか。
 私は、青年たちの命を奪い、母たちを悲しみの淵に突き落としてきた権力者の魔性を、魂の奥底から憎んだ。絶対に戦争は反対である。戦争責任者を死刑にすべきだと叫んだ。
 この3カ月後、私は戸田城聖先生とお会いし、「平和」と「正義」の大仏法を実践していくことになるのである。

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  《 君たちが 育ちて初めて 人間と
          平和の世紀の  花は咲くらむ 》

 嬉しいことに、この夏、甲子園の高校野球では、わが創価学園の球児たちの熱闘が光った。創立者として、学園の地元、さらに関西をはじめ全国の友の真心の応援は感謝に堪えなかった。
 創価教育の創始者・牧口常三郎先生も、さぞかし、お喜びであろう。
 牧口先生の三男・洋三さんも早稲田実業に在学時代、春夏3季連続で甲子園に出場しておられた。
 俊足・好打の「一番、ファースト」として鳴らした。大正14年(25年)の夏の大会で準優勝。翌年の春・夏の大会も、ともに1勝をあげている。
 その様子を、新聞が「牧口、小林、高橋等の強打者をならべて」(東京朝日新聞)と大きく紹介した。「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」でも報じられた。
 当時、名門・白金小学校の校長であられた牧口先生は「本当は甲子園へ応援に駆けつけたいが、公務のため、どうしても行ってあげられない」と心情を語られている。
 名選手であった洋三さんは、雑誌「野球界」でも取り上げられた。”高校野球の大会出場者で全日本チームをつくれば”との読者投票でも、見事に選ばれている。
 同誌の昭和2年(27年)1月号の特集「中学球界十傑物語」には、洋三青年の声が掲載されている。
 「僕は、練習の時は一心不乱にやりますので、辛いことも忘れてしまいます。けれどこのつらい練習に堪えた事は、私にとってこよなき体験となりました」
 わが創価の球児の根性と重なり合った言葉である。

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 その後、洋三さんは銀行に勤める。創価教育学会の草創期に東京・目白支部の支部長として先頭に立ち、広宣流布に凛々しく奔走された。
 戸田先生が発行された児童学習雑誌「小学生日本」の編集にも携わり、自らの野球経験やアドバイスを綴った一文も執筆されている。
 戦争が始まると、洋三さんも徴兵された。
 2度目の召集の際、1年半、中国に従軍。
 戦地でも、洋三さんは勇敢に折伏に励まれ、何人もの友を正しい信仰に導いた。このことは、戦地から、父である牧口先生に送った手紙にも、誇り高く記されている。
 しかし、従軍先の中国で赤痢に罹り、昭和19年(44年)8月31日、病死される。三十七歳の若さであった。

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 洋三さんが戦地に行っていた時、軍国主義に反対する牧口先生は、獄中闘争をされていた。看守や取り調べの検事に堂々と仏法を語り、折伏された。
 獄中の「訊問調書」には、牧口先生が取調官に対し、「立正安国論」を引かれ、叫ばれた”師子吼”が明確に書き留められている。
 「一天四海(皆)帰妙法の国家社会が具現すれば、戦争 飢饉 疫病等の天災地変より免れ得るのみならず、日常に於ける各人の生活も極めて安穏な幸福が到来するのでありまして これが究極の希望であります」(現代表記し、カツコ内を補った)
 もし、洋三さんが戦死せずに、生きて戻ってきたならば、牧口先生のご遺志を厳然と受け継ぎ、戸田先生とご一緒に「立正安国」の広宣流布の大偉業に敢然と戦い、多くの歴史をつくっていったにちがいない。
 洋三さんの逝去から1カ月半後の10月11日、牧口先生は獄中で、その戦死の報を受けた。
 先生は、心配をかけないようにと、ご自身の入獄を、戦地の洋三さんには知らせておられなかったのだ。
 牧口先生は、ご逝去の直前の、獄中からの手紙(10月13日付)で、最愛のわが子の戦死を嘆かれながらも、遺された家族を気遣われ、こう記されている。この葉書が、現存する執筆物では最後のものである。
 「びっくりしたよ。がっかりもしたよ。それよりも、お前たち二人(クマ夫人と洋三さんの夫人・貞子さん)はどんなにかと、案じたが、共に、立派の覚悟で、安堵している」(現代表記に改めた)
 日本の軍国主義は、国宝に等しい大教育者の牧口先生を、こともあろうに国賊扱いして投獄し、さらにご子息の命までも奪ったのである。
 先生の手紙には、続けて、こう綴られている。先生のご遺言である。
 「私も元気です。カントの哲学を精読している。
 百年前、及びその後の学者どもが、望んで、手を着けない『価値論』を私が著し、しかも上は法華経の信仰に結びつけ、下、数千人に実証したのを見て、自分ながら驚いている。
 これゆえ、三障四魔が紛起するのは当然で、経文通りです」(同)

 《 断固たる 平和を築けや 仏法の
         正義の大道 我らは開かむ 》

 2回目となる「終戦記念日」の前夜。すなわち昭和22年の8月14日、私は戸田先生に初めてお会いした。
 この折の座談会で、戸田先生は「立正安国論」を講義されながら、叫ばれた。
 「700年前にお書きになったものが、まるで敗戦後の我々のために、お書き遺しくださったかのようだといってよい。
 個人であれ、一家であれ、一国であれ、この仏法哲理の根本に立たない限り、一切のことは始まらない」
 「一家のことを、一国のことを、さらに動乱の20世紀の世界を考えた時、私は、この世から、一切の不幸と悲惨をなくしたい。これを広宣流布という。どうだ、一緒にやるか!」
 この戸田先生の言葉を、私は信ずることができた。
 当時の私には、世の指導者を峻別する、絶対に譲れない基準があった。
 それは、軍部権力と戦ったか、どうか。この一点であった。
 ここに、確かに信じ、そして、人生を懸けても悔いのない師がおられる──仰ぐべき大樹を求め続けてきた私は、直観したのである。

 未来の世代のために生きよ

 《 生命の 宝を持ちたる 英雄は
      世界平和の  哲人なるかな 》

 東西冷戦を終結させた立役者であった、ゴルバチョフ元ソ連大統領は、私に、こう語っておられた。
 「『戦争の子ども』である私たちの世代こそ、戦争の愚かさ、非人間性、不条理性をあばいていかなくてはいけません」
 この「戦争の子ども」の世代の”長兄”の存在が私たちである。
 私たちより上の世代は、あまりにも多くの青年たちが戦場に散ってしまった。
 私も一度、差し入れをもって、茨城県の霞ケ浦にある予科練(海軍飛行予科練習生)の先輩を訪ねたことがある。
 予科練といえば、当時の少年たちの憧れであった。
 しかし、その先輩は、私に真剣に語ってくれた。
 「体の弱い君は、絶対に志願などしてはならぬ。
 ここは、話で聞くような、いい所では絶対ないよ」
 私たちは、生きて戦後を迎えた。
 だからこそ、あとに続く後輩たちのために、絶対に「戦争のない世界」を、そして、「平和な世界」を、先頭に立って建設していく使命がある。責任がある。そう心に決めていた。
 その実現のための確固たる哲理と行動を、私に教えてくださったのが、師・戸田城聖先生である。

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何という傲慢

 思えば、戦死した長兄は、一時除隊で中国大陸から戻った時、しみじみと語っていた。
 「日本軍は、ひどすぎる。あれでは中国の人たちが、あまりにも、かわいそうだ」
 21歳で出征し、29歳で戦死するまで、青春を滅茶苦茶にされた兄の遺言である。
 さらに、明治の末か大正の初めに2年間、韓国のソウル(当時、日本の支配下で京城と呼ばれていた)に滞在していた父もまた、激怒して言った。
 「どうして日本人は、こんなに威張りくさって、傲慢なんだ。あんないい人たちを、苛めて、苛めて、苛め抜いて、日本はなんという国か!」と、怒りを込めて語っていた。
 終戦直前の空襲が激しかったころ、疎開先の馬込の家の近くに、撃墜された飛行機から、若きアメリカ兵がパラシュートで降りてきた。
 アメリカ兵は、人々に棒で、さんざんに殴られ、蹴られた。
 揚げ句に、目隠しをされて憲兵に連れて行かれた。
 その光景を、母に伝えると、「かわいそうに! かわいそうに! その人のお母さんは、どんなに心配していることだろうね」と言っていた。
 あの母の声は、今も心に響いて離れない。
 こうした父と兄の憤怒、そして母の祈りを胸に、私は、中国にも、韓国にも、アメリカにも、そして全世界に、平和友好と相互信頼の「金の橋」を築き上げてきた。

     『平和こそ全世界の母の悲願』
戸田先生 『この世から不幸をなくすのが広宣流布』

 その行動に対して、今、世界の心ある識者の方々が、深き共感を寄せてくださっている。
 イギリスの大歴史家のトインビー博士も、私の小説『人間革命』英語版の序文で、「創価学会は驚異的な戦後の復興を遂げた──それは、経済分野における日本国民の物質的成功に匹敵する精神的偉業であった」と讃えてくださった。
 またオーストラリア最高峰の名門シドニー大学「平和・紛争研究センター」の所長を務めたスチュアート・リース名誉教授も、我らの前進に期待してくださっている。
 〈リース名誉教授は語っている。
 「戦後の日本の発展は、大企業の経済的、技術的な成功のみによって知られるべきではない。日本の人々と同様、世界の人々も、日本の非暴力運動の指導者、牧口、戸田、池田の3氏に感謝を表明すべきである」
 「世界は対話を必要としている。大いなる挑戦を必要としている。さらに非暴力の哲学と、言葉と、その実践を必要としている。
 宇宙大でありながら、現実を直視する仏教の伝統はその影響を与え始めている。
 世界は、池田会長とSGIに謝意を表明すべきである。
 その感謝の表明が、第2次世界大戦終結の記念日になされることほど、ふさわしいことはないであろう」〉

 《 微笑(ほほえみ)の 母がおわせば 太陽が
        照らすと等しき  平和の城かな 》

 じっは、8月15日は、蓮祖大聖人の御母・妙蓮(梅菊女(うめぎくにょ))君(ぎみ)の御命日であられる。(文永4年(1267年)の8月15日)
 大聖人は、仰せになられた。
 「悲母(ひも)の恩を報ぜんために此の経の題目を一切の女人に唱えさせんと願(がん)す」(御書1312ページ)
 まさしく、この8月15日は、全世界の母たちの幸福、そして、母たちの悲願である平和を、皆で、祈り、決意する日としたい。

 民衆よ強く! 民衆よ賢く!

 《 勇敢に
  断固と恐れず
   指揮を執れ
  平和の革命
    我らの正道 》

 大聖人は仰せになられた。
 「第六天の魔王は、十の魔軍(魔の軍勢)を起こし、『生死(迷いと苦悩)の海』の中にあって、この婆婆世界を取られまい、奪おうとして、法華経の行者と争っている。
 日蓮は、第六天の魔王と戦う(法華経の行者の)身に当たっており、大兵を起こして戦うこと二十余年である。その間、日蓮は一度も退く心はない」(同1224ページ、通解)
 この現実世界は、仏と魔との戦場である。
 人間を不幸のどん底に陥れんとする「第六天の魔王」に対して、人類を平和へ、幸福へ、希望へと導かんとする「仏」の勢力は、断じて勝たねばならない。
 戸田先生は言われた。
 「広宣流布の戦だけは、絶対に負けるわけにはいかない。たじろぐことは許されない。
 負ければ、人類は、永遠に闇に包まれてしまう。民衆救済の尊い使命ある学会は、何があろうと負けてはならないのだ!」
 「戦争をなくすためには、社会の制度や国家の体制を変えるだけではだめだ。
 根本の『人間』を変えるしかない。
 民衆が強くなるしかない。
 民衆が賢くなるしかない。
 そして世界の民衆が、心と心を結び合わせていく以外ない」

 『信教の自由 を護り抜け』

 私が、かつて読んだトルストイの文章で、深く感銘を受け、今でも記憶している言葉がある。そのなかから、三つ申し上げたい。
 それは──
 「人生とは、自身の心を広げることである」
 「幸福とは、心を、どれだけ大きく広げ、そして成長させたかにある」
 まさに、人間革命である。
 さらに──
 「戦争とは、圧制の産物である。圧制がなければ、戦争はありえない。圧制が戦争を生み出し、戦争が圧制を支える。
 しかるに、戦争と戦おうと思う者は、圧制と戦わなければならない」
 その通りだ。
 人権の弾圧と戦い、
「信教の自由」を護り抜くことは、平和闘争の根幹である。
 そして──
 「不滅の魂には、同じように、不滅の行いが必要である。
 その行いとは、自身と世界を常に向上させることである。それが魂に与えられたものである」
 全世界の希望の太陽であり、平和の闘士たる、わが同志に一首を贈り、私の所感を結びたい。

 《 暗闇の 千変万化の この社会
      世紀を照らせや 偉大な君らよ 》
2007-8-20