投稿者:一人のSGI 投稿日:2016年 8月15日(月)08時49分47秒   通報
>正宗から、偽本尊とか「開眼」わけのわからんイチャモン付けられる<

こういう問題は、御書を深く勉強をしていけば、自ずと回答は見つけられると思います。
又これもいろんなメンバーが意見を出し合って正しい解釈を見つけ出していくことが最良の道だと思います。
その場合、もし学会に手落ちがあったなら、素直に認めて改めるべきだし、どう考えても正宗がおかしいと思うなら
譲れない部分をはっきり打ち出したあとは、見解の相違を提示し続けながらも、お互いに深く罵り合うことだけは
避けた方が今後の長い道のりを乗り切っていけると私は思っています。

ちなみに御本尊の「開眼」について、私の見解を少し書いてみます。
その前にせっかくですから、「御本尊」についてちょっと書きます。

天台の流れを汲む大聖人の仏法では、生命の働きを一念三千として捉えています。
そしてその一念三千の中で、十如是の中の如是縁、三世間の中の国土世間は、依報(環境、客観的立場)であり、その他は、
正報(わが身、主観的立場)になります。
ですから私達の一瞬一瞬の生命の働きに、この依報、正報がお互いに干渉しながら、多彩な生命活動を繰り広げているということが
「依正不二」の現実です。

夫十方は依報なり.衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし・身なくば影なし正報なくば依報なし・
又正報をば依報をもつて此れをつくる
  瑞相御書 p1140

「正報をば依報をもつて此れをつくる」とありますが、たとえば私達は外界にある食物を摂取し消化して自分の体の一部とし、又、環境である
外界の出来事を縁として(如是縁)、10界のいずれかの境涯を顕現しながら、その反応の仕方によってそれぞれの宿業をつくり、生命の傾向性を
強化していきます。そしてここが大切なところでもありますが、依報が正報としての私達の生命に10界の違った生命境涯を出させることができる
という事は、依報自体が10界を具している、という事でもあります。

私達はこの様にして、環境と一体で生きている訳ですが、その環境の中に、私達の仏界を湧現させる最高の縁になるものを現実化したのが
大聖人です。
それは非情の生命の草木の仏界をひらき現すという形で現実化しました。
この原理は「草木成仏」といわれるものです。

草木成仏には2種類の成仏の側面があります。

 不改本位の成仏 - 草木の本来の生成の中にすでに成仏がある。
 木画二像の成仏 - 人間によって形を与えられ、働きを与えられる事によって、その力用を現す。

この木画二像の成仏、草木成仏の原理を使って、草木である紙に、大聖人がご自分の自受用報身如来の仏界の生命を書き著したのが
御本尊なのです。

草にも木にも成る仏なり
一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり
   草木成仏口決 p1339

では、その仏界の生命が教えとして正しく書かれている経は何か、、。
大聖人は「一念三千の法門」法華経だといわれています。

然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし而るに今木画の二像をまうけて大日仏眼の印と真言とを以て開眼供養をなすはもとも逆なり

故に、木像・画像の開眼供養は、ただ法華経に限るのである。にもかかわらず、今の真言宗が、木像・画像の二像をもうけて
大日仏眼の印と真言とをもって開眼供養を行っているのは最も道理に背いた姿である。
   本尊問答抄 p366

ここで言っている「開眼供養」とは明らかに其の儀式を司る人や、其の儀式自体を言っているのでは無い事は、文脈上から推察できることだと思いますがどうでしょう。
問題にしているのは、教(経)の違いです。真言宗にも本尊はありますが、真言宗は法華経を依経にしている訳ではないので、その本尊は10界具足ではありません。
つまり、教(経)を本尊にあらわす事、それ自体を「開眼の儀式」としていて、その教(経)とは法華経に限る、つまり、正しい教えが刻印された本尊(草木成仏)が、
真実を開顕している、その事自体を「本尊の開眼供養」という意味だと私は思っています。
ただし、それを書写する人が大聖人でない場合、日興上人の様に、本当に真摯に大聖人の教えを守ろうとする人だけにやってもらいたいものです。
しかし、その判断が将来(もうすでにおきているか、解りませんが)あやふやになる可能性が大いにある昨今、私は誰かの書写ではなく、実際の大聖人直筆のご本尊を
そのままコピーしたものを永遠に会員に御下付し続けたほうが無難だと思います。
つまり、だれにも御本尊に対して、権能を持たせないということです。(あくまで私の考えです)
いずれにしても大聖人は、こうおっしゃっています。
日蓮がたまし魂ひをすみ墨にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意みこころは法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」
       経王殿御返事 p1124