投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 7月27日(水)12時45分46秒   通報
最後に戸田先生の〝業病〟に対する指導の抜粋を記して終わります。(※読みやすいように変換)

――いまの世間を見るに、医者ではどうしても治すことができない業病の多いのには驚く。
本人の嘆きはもちろんのこと、家族の嘆きは筆舌につくせない。かわいそうでならないのだ。

何とかして一日も早くこれを治してやりたいものと思わざるを得ない。
凡夫の身として医者も治せない業病をどうして治すことができようか。

深く憂い、深く悲しみ、そのご指南を大聖人に受ける以外にないことを知って、
御書を拝見するのに明々白々として、これが治療の方法を知ったのである。

それはご本尊を信じてこれを行ずる、すなわち〝信力・行力〟が〝法力・仏力〟となって、
人の力では及ばない大現象をそこに出現するのである。

過去世の業因によって起こったところのものは、もっとも難病中の難病である。

たとえば、小児マヒ、精神病、脳水症等である。
治し難き業病の最も重いのは、過去世の法華誹謗によることは明らかである。
また、業病は過去世の謗法によるものだけではなく、現世においても同じく言うのである。

「軽き有り重き有りて多少定まらず」(御書一〇一〇頁)と仰せの軽いものは、
今世の業因によるものである。

法華経こそ一切の病の良薬であり、変毒為薬の妙なるものである。
謗法は毒であり、これを治しうる法は良薬である。

業病の因たる謗法の毒を法華経の力によって良薬に変ずるのであるから、
これすなわち変毒為薬である。

「人の地に倒れてかえって地によりて起つ」(同頁)、すなわち法華経誹謗の業因あるものは、
法華経以外のものによって、治すことはできないことは明々白々である。

いま一例をひく。

小児マヒの子供をもった親があったとする。子供は御本尊を拝むことができない。
しかし、親は御本尊を信じ行ずることができる。

この親が大信力を起こして大御本尊を拝み、折伏を行ずるならば、その子供は治るのである。

しかし、その子供があまりにも業因が深くして終生その病気に悩まなければならない場合は、
その子供は生きることができないで早く死ぬのである。

なぜ死ぬのであろうか。

それは小児マヒの子供を持つ親には、そのような子供を持つ業因があるのである。

されば、信心することによって親の業因が消えたとするならば、
小児マヒの子供を持つ宿命がなくなったことになる。

そうなると、これに応じて子供は治るか、死ぬかのどちらかでなくてはならないのである。

付記していっておくが、金を持てない、家を持てない、というような貧乏な暮らしの宿命は、
身の業病ではないけれども、やはり業病の一種になる。

医者でも薬でも治らないゆえに、といえば冗談になるが、
だれ人の力をもってしても、どうすることもできない。

ゆえに、そういう人は大御本尊を信じ、信力・行力を励まなければならない――

(戸田城聖全集第一巻一四二頁)

おわり