投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 1月16日(金)05時51分4秒  

「師弟不二」についてはっきりさせておいたほうがよさそうなので、
法華経の智慧を引用しながら考察していきたいと思います。

まず、師弟不二の「師」とは誰のことを指すのか。法華経の智慧6巻にこのように記されています。
「言うまでもなく、私たちの信仰の対象は、日蓮大聖人であり、大聖人が根源の師匠です。」

本当に言うまでもありませんが、これが大前提であり、三代会長であろうと誰であろうと、日蓮大聖人が師匠であり、あとはすべて弟子という位置づけです。これは永遠に変わることはありません。

日蓮大聖人との師弟不二の関係性について、日寛上人はこのように言われています。
「我等、妙法の力用に依って即蓮祖大聖人と顕るるなり」と

題目を唱えることにより、凡夫と仏(大聖人)が不二の存在になるところに、日蓮仏法の真髄があります。そこには差別はないわけです。

日蓮大聖人を師とすることを大前提としながら、さらに、日蓮仏法を行じ、弘めている人たち(同志)の中においての、師弟も大事にしているのが創価学会という組織になります。
そして「創価学会」の中においての師(指導者)を、三代会長と位置づけ、広宣流布を推進しているわけです。

では、創価の師弟不二とはいかなるものかを検証していきましょう。
人間革命10巻に「彼(山本伸一)は一念において、すでに戸田の一念と合一したところから出発していた」との記述があります。

師と弟子が同じ一念に立つことを師弟不二というわけです。決して、先生が絶対正しいという、所謂「池田先生絶対論」的なことではないわけです。

師の一念とは何か。それは、「この世から悲惨の二字をなくしたい」ではないでしょうか。
これが戸田先生の一念であり、師弟不二の池田先生の一念でもあると推察できます。

法華経の智慧1巻でも、斉藤教学部長(当時)が「『師弟不二の道』とは、師と同じ心、同じ祈りに立って戦っていこうとすることだと感じます」と。

そもそも法華経自体が、万人成仏を説いており、「自分は自分、仏は仏」という断絶の心を打ち破る経であります。不二を教えているのが法華経なのです。

「この世から悲惨の二字をなくしたい」という師の一念に合致させ、広宣流布を進める。この一念が日蓮大聖人の心に適っているか否か。私は適っていると思います。

そしてその、悲惨を生み出す根源は何か。それが悪です。悪を容認する仏などいるわけがない。だからこそ、悪を責めるわけであり、それこそが仏の振る舞いであり、日蓮大聖人の精神でしょう。

また日興上人と五老僧の違いについて、法華経の智慧1巻で「『師の教えは素晴らしい』とは、だれでも言える。『だから、なんとしても人々に伝えていくのだ』-これが日興上人であられる。『だから、それを知っている自分はすごいのだ』-これが五老僧ではなかっただろうか。」と。

自分中心の信心では名聞名利に流され、腐敗堕落していく可能性が高く、師を中心とした信心であれば、それを防ぐことができる。師の一念を中心とした信心の中に、広宣流布の信心があるわけです。

誰を師とするかは弟子の問題です。はっきり言うとそんなことは自由です。
正しい信心をしたければ、正しい指導者についていくのが自然の流れだと思いますが、中には「三代会長なんて関係ない。私の師匠は日蓮大聖人だけだ」と言う人がいても構わないと思います。まあ、「ちょっとひねくれてるな」とは思いますが・・

学会員で一番多いパターンとしては、本当に苦境に立たされた時に、先生の激励や書籍を読んで、そこから打開していったという体験、体感のある人は、素直に先生を師匠として信心に励むのではないでしょうか。
私もこのパターンに属しますね。

ともあれ、師弟不二に関しての議論というのは、現場ではあまりなされないだろうし、深くも考えていないというのが実情でしょう。永遠の指導者についても本当はもっと深く掘り下げた議論をしていかなければならないとも感じています。

以上、考察とは言えないレベルの考察でしたが、基本的なことなのでおさらい程度にまとめておきました。