投稿者:螺髪 投稿日:2016年 7月 9日(土)07時38分28秒   通報
「生命の世紀」への考察
「行道不行道」<下>
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$$ 「三乗」といっても仏の境地とは天地雲泥の差がある!
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少し込み入った御文の展開になりますが、こんな仰せがあります。
「大瓔珞経には木画の二像は生身の仏には・をとれりととけり、木画の二像の仏の前に経を置けば三十二相具足するなり、但心なければ三十二相を具すれども必ず仏にあらず人天も三十二相あるがゆへに、木絵の三十一相の前に五戒経を置けば此の仏は輪王とひとし、十善論と云うを置けば帝釈とひとし、出欲論と云うを置けば梵王とひとし全く仏にあらず、又木絵二像の前に阿含経を置けば声聞とひとし、方等般若の一時一会の共般若を置けば縁覚とひとし、華厳・方等・般若の別円を置けば菩薩とひとし全く仏に非らず」(木絵二像開眼之事P468)。

整理してみます。
中国の大瓔珞(だいようらく)経には、木画の二像は生身の仏には劣っていると説いている、(その)木画の二像の仏の前に経を置けば三十二相を具足する、ただし心なければ三十二相を具してはいるが必ずしも仏ではない、人天も三十二相があるからである、と。三十二相は仏や転輪聖王が備える勝れた相で、人天にもあります。
このあとです。
三十一相の前に「五戒」を置けば「輪王」の「人」と等しい、「十善」を置けば天界の中の「帝釈」と等しい、「出欲」を置けば同じく天界の「梵王」と等しい、だが「仏」ではないと仰せです。あえて言えば、「十善」は「色界」に、「出欲」は「無色界」になるといえるでしょうか。

あとに残るのが声聞、縁覚、菩薩の三乗です。
(木絵二像の前に)「阿含経」を置けば「声聞」、「一時一会の共般若」を置けば「縁覚」、「華厳・方等・般若の別円」を置けば「菩薩」となる、とあります。
「阿含経」とは小乗教です。「法帰」の意味もあります。「声聞」となります。「共般若」は大菩薩のみが所持する「不共般若」の反対で、「一時一会」とあるように「ある瞬間」の覚りで「縁覚」となります。

「華厳」は「大方広仏華厳」の略ですし、「方等」は方正、平等な教えの「大乗教」意味し、「別円」は「菩薩のために説いた教え」で、いずれも時間と空間を超えた「智慧」の領域を意味します。しかし、それでもまだ「全く仏に非らず」です。
「三乗」といっても、やはり、仏の境地とは天地雲泥の差があるということです。

またこんな御文もあります。
「三悪並びに無間大城に堕ちて其の苦をつぐのひて人中天上には生れたれども其の罪の余残ありてややもすれば正法を謗じ智者を罵り罪つくりやすし、例せば身子は阿羅漢なれども瞋恚のけしきあり、畢陵は見思を断ぜしかども慢心の形みゆ、難陀は婬欲を断じても女人に交る心あり、煩悩を断じたれども余残あり何に況や凡夫にをいてをや」(善無畏三蔵抄P885)。
「身子」は舎利弗のことで声聞にあたり、「瞋恚」が母体の地獄の延長線上にあるし、「畢陵(ひつりょう)」は見思を断じたものの「癡か」の、「難陀」は「貪り」の延長にあると見て取れます。
やはり、仏とは大違いなのです。

六道にあって「三善道」に開くか、「三悪道」にとどまるか、また十界にあっては「四聖」を開くか、それとも「六道輪廻」にとどまるかの「鍵」は、ひとえに、その傍らにある「心の法」によるということになります。

「心こそ大切に候へ」(千日尼御前御返事P1316)です。

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$$ 他者の自我をも乗り越えさせる菩薩への転換!
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自らの幸福を願うことだけの声聞から他者の幸福をも願う声聞、自らの悟りを開くだけの縁覚から他者の悟りをも開く縁覚、自我を乗り越えるだけの菩薩から他者の自我をも乗り越えさせる菩薩への転換。それこそが「真」の「菩薩」と言えるのかも知れません。
人間は、「戒」を持つことから出発し、内発的なものに支えられて、そこに真の「喜び」を見い出し、「法帰」(=律)を辿って十法の「方等」を知覚し、「時間と空間」を乗り越えて、やがて人智の根源を観ることになる、と。

さて、いまの創価学会執行部も、冒頭の「行道」を外す路線をひた走り続けていると言わざるを得ません。種脱相対、本迹相対、権実・大小相対どころか、内外相対をも踏み外す外道路線です。ようするに「仏法違背」です。だからこそ、五重の相対も、五時八教も捨て去ろうとしていると俯瞰できます。
「保身」に走り始め出したからです。「保身」は「貪り」です。「餓鬼」です。偉大な指導者が陣頭指揮をとらなくなって、自分たちがいかに「非力か」を思い知ったに違いありません。だからこそ、その運営をこともあろうに市場調査会社に任せることにしたのです。任せれば、少なくとも自分たちの「結果責任」はとりあえず回避できます。こういうのを「卑怯」というのです。

世界も、日本もいま、あらゆる組織、団体で「安心」のための「統合」の動きが出ています。一方で、「分断」の動きも起きています。
「分断と統合」は、「開と合」の生死の二法です。大きくなって大きくなって、その存在を巨大化していった“恐竜”は、わずかな地球環境の変化にも適応できず死に絶えてしまいました。微細化もやがて、消失の憂き目に遭うでしょう。だからこそ、確かなる「仏法史観」を持った「行道の道」を示すことが緊急の要請なのです。

残念ながら、執行部は「保身」の道を選んでしましました。そのための「会則の改定」、「会憲の設定」と見ざるを得ません。とりわけ、いけないのが、いわれなき解任、いわれなき除名、いわれなき活動停止の“暴挙”です。これは、明らかな「人権侵害」です。この一点で、私なんかは「不信」を決定的にしてしまいました。
「一割は残る」などと嘘いておられるようですが、第一次宗門問題、第二次宗門問題の時と同じと考えるのは時代錯誤も甚だしい。池田先生が陣頭に立たれなくなって、いま、「おかしい、おかしい、おかしい」の声が日増しにつのってきています。“一触即発”の状態だと見た方がいいですよ。

どなたかが、執行部の面々の数年前の税務署の申告所得を掲載されました。「すでに週刊誌に載っていたこと」などという投稿もありました。
違うのです。学会員は、週刊誌の記事に対するある種の“自己セーブ”は働かせていますが、税務署の公表数字となると“客観性”が格段に高くなります。事実と裏付けられるからです。だからこそ、私は「この投稿は大きい」としました。
メディアが独自取材や、一次情報にこだわるのもこのためです。

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$$ 陣頭指揮の時代は「誇り」をも抱いていた!
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いまも、学会活動のかなりの部分に“ボランティア”が渦巻いています。支援活動だって、そのほとんどが“ボランティア”ではないですか。その“ボランティア”に、池田先生が陣頭指揮の時代は「誇り」さえも抱いていたものです。
「言うことを聞かない」からと、切って、切って、切って、どれだけのことができるでしょうか。「頭を冷やしなさい」と誰もが感じることです。
いまの執行部は、「行道」の道も、「人間の道」も踏み外していると言わざるを得ません。

ルソーのエミールのこんな一節があります。
「人間よ人間的であれ!
万物をつくる者の手をはなれるときすべては良いものであるが、
人間の手にうつるとすべてが悪くなる。
人間は教育によってつくられる。
=略=
自然を観察するがいい。
そして自然が示してくれる道を行くがいい。
自然はたえず子どもに試練をあたえる。
あらゆる試練によって子どもの体質をきたえる。
人間よ 人間的であれ。それがあなたがたの第一の義務だ。
あらゆる階級の人にたいして、あらゆる年齢の人にたいして、
人間に無縁でないものたいして、人間的であれ」。
(注筆者・やや神学的ではあります)

脈絡はありませんが、「空(そら)」を見ることは、「仏性」に近い。「仰ぎ見る心」に「法性」や「仏性」はあるようです。「空(そら)」は空仮中の「空(くう)」に通じます。「空(くう)」は「報身」です。「般若」です。「智慧」です。「智慧とは南無妙法蓮華経なり」との仰せが響きます。「空(そら)」は「希望」ではないでしょうか。「勇気」ではないでしょうか。

論理や道理は、人に語るには必不可欠なものですが、それは、感情にまでに高まるものになっていないと、とても悪世の現代では人を引っ張れるものとはなりたり得ません。いま、打ち拉(ひし)がれているその時にこそ、偉大なるものは出ます。「分身の起る処を習うには地獄を習うなり」(P797)との仰せを引き出し、今回の考察を閉じることにしましょう。

(おわり)