投稿者:螺髪 投稿日:2016年 7月 8日(金)13時23分13秒   通報
「生命の世紀」への考察
「行道不行道」<上>
六道の「三界」を離れて「四聖」に向かうのか、それとも「三界」に終始するのか。この重要な分疑点に差し掛かっているようです。「三界」とはむろん、欲界、色界、無色界の六道輪廻です。行き詰まります。そう仏典は教えます。「四聖」と言っても、「一仏乗」です。それが、法華経、なかんづく日蓮大聖人の仏法です。

こんな仰せがあります。
「十界の衆生の事を説くなり行道は四聖・不行道は六道なり、又云く行道は修羅人天・不行道は三悪道なり、所詮末法に入つては法華の行者は行道なり謗法の者は不行道なり、道とは法華経なり、天台云く「仏道とは別して今の経を指す」と、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは行道なり唱えざるは不行道なり云云」(御義口伝P758)と。

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$$ 行道こそ仏道の本筋!
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法華経寿量品第十六の「行道不行道」を大聖人のお立場から述べられたものです。
①「行道は四聖・不行道は六道なり」
②「行道は修羅人天・不行道は三悪道なり」
③「法華の行者は行道なり謗法の者は不行道なり、道とは法華経なり」
④「南無妙法蓮華経と唱え奉るは行道なり唱えざるは不行道なり」
と四段に立て分けられて述べられていることが分かります。

「また難しいものを引っ張り出してきて!」なんて仰るかも知れませんが、大事なことなのです。いまの創価学会の問題も、日本も、世界もぶち当たっている問題をも紐解く大聖人の仰せだと思うのです。

二番目に「三悪道」という言葉が入っています。その反対が「三善道」です。「修羅」は「四悪趣」にも入るのですが、ここでは、「行道」に部類されています。行道ですから「善道」となります。
「修羅」から明らかに「他者」が入ってきます。
「他者」を追い落とそうすれば「四悪趣」です。「他者」を凌ぐように自身を磨けば「三善道」となります。したがって、「三善道」の「人界」も、何もしないで、ただ「平穏」になることではありません。「他者」の幸せのことをも考えるから、自他共の「平穏」と見るべきなのでしょう。それが真の「安穏」です。法華経の智慧にもありました。

「天界」も同じです。自他共の「喜び」とするからこそ、真の「天界」と言えるのでしょう。先ほどの御文に引き続いて、
「・喜ぶは天・平かなるは人なり」(同)と仰っておられます。

ここでは詳細を省きますが、「行道・不行道」というのは「相対」です。「四聖」と「六道」の相対、「修羅人天」と「三悪道」の相対、「法華の行者」と「謗法の者」との相対、そして「南無妙法蓮華経と唱え奉る」と「唱えざる」の相対です。
「四聖と六道」の相対というのは、仏道を目指すのか、目指さないのかということですから「内外相対」と考えられます。「三善道と三悪道」の相対は「善・大善」を目指すか目指さないかですから「大小・権実相対」と捉えられます。その上に立って「法華の行者と謗法の者」は「本迹相対」と想定できます。
そして、「南無妙法蓮華経と唱え奉ると唱えざる」は「本門文底」と「本門文上」の「種脱相対」と捉えられます。つまりこれは「五重の相対」です。

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$$ 生命の起動軸はもちろん「法性」!
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人間の起動軸、生命の起動軸はもちろん「法性」です。「妙法蓮華経」という名前もあります。「法性」は「仏性」、「仏」は「生命」のことですから、ここのところの投稿とは相異してしまいますが、「法性」は単純に「生命力」と言っていいのかも知れません。中国には「能源(のうげん)」という言葉がありました。要はエネルギー体のことです。「法性」は日常、私たちが認識するのは、その変化相としての十界です。
それは、妙法蓮華経の変化相です。「生」あるために、妙法蓮華経が依報(環境)との間でこしらえた変化相です。その全貌を天台智顗大師が一念三千として体系化しました。

でも、どうでしょう、自然状態で人間は、その十界の中でも「貪り」の「餓鬼」を中心としてはいないでしょうか。「欲望」といってもいいかもしれません。「欲望」は現代では、護身の「自己防衛」、細胞維持の「飲食」、自己再生の「生殖(性欲)」が三大欲望と言います。すべて「生命維持」のためです。あの脳科学者の中野信子さんは、この世に生を受けた「ミッション(使命)」なんて言っています。
「欲望」を遮(さえぎ)られるから、その不満から「愚痴」をもらし、時折、不満爆発の「瞋り」に転ずることもあります。不満を重ねて学習することにより、虎視眈々(こしたんたん)の「諂曲(てんごく)」となることもあります。もしかすると、「生命」と言ってもこの世では、この「法性」と「生」を営むための「欲望」だけしかないのかも知れません。

もちろん、十界各界に該当する法界はあるわけで、一念三千そのものを否定するものではありません。むしろ、その一念三千の構造というか、組み立てに立ち入るものです。

「欲望」は「生」とは切っても切り離せません。だが、「保身」です。「我欲」です。「我欲」は他を危機に追いやるばかりか、その反転として自身をも危うくする宿命を抱えています。いま、世界も、日本も、あらゆる組織、団体がこの「我欲」の罠に堕ちいっていはしまいか、と見るわけです。

三毒・四悪については、大聖人が明確に仰っておられます。
「瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅」(如来滅後五五百歳始観心本尊抄P241)と。
その「貪り」の“中心”にあるのは「法性」です。というより、法性の変化相です。
こんな仰せがあります。
「餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり、此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る、仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり」(曾谷入道殿御返事P1025)。

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$$ 餓鬼は恒河を火と見る!
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同じような仰せの内容がほかにもあります。
「餓鬼は恒河を火と見る・人は水と見・天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり、此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず肉眼は黒色と見る二乗は虚空と見・菩薩は種種の色と見・仏種・純熟せる人は仏と見奉る」(法蓮抄P1050)。
「餓鬼は恒河を火と見る」と。

なぜ、「餓鬼」なのでしょう。畜生や修羅ではないのでしょうか(この項の内容は、以前にも述べました)。
こんな仰せがあります。
「採果とは抦煩悩なり汲水とは貪煩悩なり拾薪とは怒煩悩なり設食とは慢煩悩なり、此の下に八種の給仕之有り此の外に妙法蓮華経の伝授之無きなり」(御義口伝P745)。
心の「渇き」が恒河の「水」さえ「火」と認識させてしまうのです。

(つづく)=他の方の投稿もありますので少し間隔を置きます=