投稿者:ロマン 投稿日:2015年 1月13日(火)19時44分25秒 通報 編集済
私は「時」を待っていた。
そして私と共に立つ、正義の「青年」を待っていた。
昭和五十六年の十二月八日――この日、私は、断固たる決意で九州の大分に入った。
あの宗門事件で、最も早くから悪辣な坊主の迫害を受けてきたのが、わが大分の同志であったからだ。
直ちに、私は、その苦渋と憤怒の日々を、地元幹部から事細かに伺った。
その際、坊主どもに騙されてしまった会員たちのなかで、青年部の退転者は、ごくわずかであったと聞いたのだ。
“大分の青年は、よくぞ耐えた! 勝ったな!”
わが胸の空に、希望の光が稲妻の如く走った。
青年しかない。青年が立ち上がる時が来たのだ!
そして、私は、修羅場となって魔軍と戦いゆく、ここ九州の天地で、わが正義の闘魂を託し遺そうと決めた。
十二月の八日の夜更け、私が執務する部屋に、信頼する九州の若き弟子を呼んだ。
「これから、大事な儀式を行うよ。
私は、これを授与するために、九州に来たんだ!」
私は、数枚の原稿を入れた封筒を手にした。実は、数年前に書いて厳重に保管していた原稿を鞄に収め、大分入りしていたのである。
「中身は後で見なさい。私の大事な原稿だ。
時が来たら、これを持って、九州は立ち上がりなさい!」
封筒を受け取った弟子の顔が、みるみる紅潮した。
「今は誰にも見せなくていい。命をかけて守りなさい」
封筒には、私の二種類の原稿が入っていた。
一つは、私が第三代会長を辞任した昭和五十四年の四月二十四日の夜、聖教新聞社で記者会見した直後に、心境を綴ったものであった。
仏子を守り抜け!
もう一つは、宗門事件が公然化してきた、忘れ得ぬ昭和五十二年の十二月四日、九州・宮崎の宿舎で書いた一文である。
この時も、私は、日蓮仏法に違背する無数の邪悪と、大攻防戦を繰り返してきたのであった。
私は、憤怒の叫びを原稿に叩きつけるように書いた。
「宗門問題 起こる。
心針に刺されたる如く 辛く痛し」
「広宣流布のために、僧俗一致して前進せむとする私達の訴えを、何故、踏みにじり、理不盡の攻撃をなすのか」
「大折伏に血みどろになりて、三類の強敵と戦い、疲れたる佛子に、何故、かかる迫害を、くりかえし来るのか、私には、到底 理解しがたき事なり」
「尊くして 愛する 佛子の悲しみと怒りと、侘しさと辛き思いを知り、断腸の日々なりき。此の火蓋、大分より起れり……」
さらに、福井、兵庫、千葉などで、信徒迫害の悪坊主が現れた無念を、私は書き留めた。
そして、昭和五十六年に迎える蓮祖の第七百御遠忌を荘厳できるように、「血涙をもって祈り奉りしもの也」と、真情を綴っていった。
そうでなければ、「邪宗、邪義、悪鬼魔神のみが喜ぶところ」であるからだ。
これが、私の心の中に決意深く描かれた真実正義の絵画であった。
九州の弟子たちよ、断じて仏子を守れ!
邪悪と戦い、断固と勝ちゆく、わが闘魂を受け継いでくれ給え!
――この厳粛な“儀式”のことは、当時の大分県長だった牧野君、そして現・九州長の山本君が証人である。
そして私は、瞬時の休息もなく、創価の青年に新しき指標を贈らんと、思索を巡らせていった。
その結実が、あの長編詩「青年よ 二十一世紀の広布の山を登れ」の劇的な発表となったのだ。
随筆に公に掲載されたのはこの時ですね。
大分での激励行は「人間の中へ」に詳しく書いてありますね。