投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月23日(土)09時02分37秒 通報
では、六老僧の御書に対する態度はどうだったのでしょうか。
六老僧のなかでも御書に対する厳格な態度は、やはり「日興」が飛び抜けていて、その業績は他を圧しています。
六老僧のなかでも特に師匠に常随給仕していた日興は、師匠が法門を著されると、
すぐにそれを筆写していたことは十分に考えられます。
なぜかというと、直弟子の現存写本は御書全集の目次によれば、
五十三編が数えられますがそのうち日興の写本は、実に四十九編にも及ぶからです。
五老僧にいたっては、一編も残っていません。
日興は“富士一跡門徒存知事”のなかで
「彼の五人一同の義に云く、聖人御作の御書釈はこれ無き者なり。・・・・而るに日興、
聖人の御書と号してこれを談じこれを読む。これ先師の恥辱を顕す云々、
ゆえに諸方に散在する処の御筆を、或はスキカエシに成し、或は火に焼き畢んぬ」(一六〇四頁)
と述べられていることから、
五老僧には御書収集への熱意など微塵もなかったことがわかります。
師匠の残された法門をまとめようともせず、内容によって軽視したり、無視するようでは弟子たる資格などあるはずがありません。
それに対して、師匠の法門を後世に残そうとする日興は、収集した御書の目録を作り、
主要な御書十編を選んで「法華本門」の四字を加え、「十大部御書」を選定しています。
そしてその十大部の所在を明らかにし、後世に正しく伝え残そうとしました。