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【五義の教を知る 第一章 五重の相対】33/34

投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月17日(日)08時38分33秒   通報
むずかしい表現になりますが、本門(人法一箇)の本尊とは、

法のうえからいえば「事の一念三千即南無妙法蓮華経の本尊」であり、
人のうえからいえば「久遠元初の自受用報身即末法御本仏日蓮大聖人」です。

宇宙根源の法である「三大秘法の南無妙法蓮華経を信じる」といっても、それは「理」であって「事」ではありません。

事を事たらしめるのが日蓮仏法なのですから、日蓮大聖人を離れて三大秘法はなく、御本尊を離れて三大秘法もないのです。

牧口先生や戸田先生と親交の深かった大石寺・日淳は大聖人の“教”についてこう説明しています。

(※読みやすいようにしました)

「世間では大聖人の“教”は題目にあると思って題目を主として御本尊をいいかげんにする者が多いのであります
・・・多いどころではなく皆そのように考えておりますが、これがために大聖人の“教”をはき違えるのであります。

元来このような考えは南無妙法蓮華経は法であるとのみ考えるからでありまして、
宇宙に遍満する妙法の“理”が題目であるとするからであります。

これは大変な誤りで南無妙法蓮華経は仏身であります。
すなわち“法・報・応”三身具足の当体であらせられ“報身”の中に具したまうのであります。

妙法の理は天地の間にありましても、それは理性であります。
実際には仏の御智慧のうちにのみ、厳然として具わりたまうのであります」(日淳全集九八二頁)

と明快に述べています。

つまり、根源の法である南無妙法蓮華経(本尊)は
大聖人の「事(発迹顕本)」を離れてはない、あるとすればそれは「理」であるということです。