投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年12月 6日(日)16時00分57秒 通報
釈尊が四十余年間明かさなかった真実とは、
実は一番長く師匠のそばにいた側近の弟子(阿羅漢)たちが、もっとも成仏しにくい人たちで、
この弟子たちを導くことこそが釈尊の最後の挑戦だった。それなくして私(釈尊)の法門の完成はない――。
このように捉えることも可能です。
二乗が目指している修行は「灰身滅智」といって、
煩悩のよりどころとなる肉体も、苦しみを感じる心の働きも、すべてを滅した状態です。
大聖人も二乗(阿羅漢)は「身も心もうせ虚空の如く成るべし」(三九三頁)と述べています。
さらに二乗の本質は、六道(地獄界から天界)の世界を嫌い、そこから出て《虚空の如く》になって、
低い悟りに満足して現実の世界にはもどってきません。
だから六道の衆生を救おうとしないのです。
「永く六道に還らんと思わず故に化導の心無し」(四三四頁)とある通りです。
私たちでいえば、
自分は何でも知っているし苦労もしてきた。
若いころから学会の中で訓練を受けてきて学会活動も題目も一生懸命にやってきた、と自負する人たちがいます。
しかし、そのわりにはぜんぜん境涯革命していないし、
常に上から目線で青年部を下に見、その青年部からは常にバカにされている人もいる。
信心を何十年も続けながらどうしてこういう人がいるのでしょうか。
そういう人は
《自分》のためなら死ぬ気で頑張りますが、
《他人》のためにはそこまでしない、いつも自分のことばかりです。
そして他人の話を聞こうとせず一方的な人。
つまり、信心がわかっているようでわかっていない人――これが学会員における「二乗」です。