師弟不二ARCHIVE

法華経の智慧357

投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月26日(月)13時04分48秒   通報
■ 「戒律」は「健康法」p034

名誉会長: 生老病死の四苦を乗り越えるといっても、観念論ではない。要するに、どうすれば健康で、充実して長生きをし、苦しまないで死ねるか —- その課題を離れてはない。そのための「智慧」を仏法は説いているのです。
例えば、小乗教の戒に、在家信者が特定の日に受持した「八斎戒」がある。その一つに「正午を過ぎたら食事をしない」という戒がある。これなどは、寿命を延ばすための修行とも言える。

斉藤: 過食の戒めですね。

名誉会長: 他の戒にしても、欲望をコントロールして、心身の調和を図ることを目指している。いわば仏道修行が、そのまま心身を調える「健康法」ともなっている。

遠藤: 確かに、戒は「生命を清浄に保つ」ことに力点があると言えます。これは、小乗教に限りません。つまり、「生命を浄化する」ことによって「生命本来の働きを活性化させる」わけです。
例えば、天台の立てた修行に二十五方便がありますが、そのなかの「五事を調う」は、生命を健康に保つための修行という色彩が強いと思います。
調食(食べ物の調節)・調眠(睡眠の調節)・調身(身体を調えること)・調息(息を調える)・調心(心を調える)の五事です。

名誉会長: 心身を調えることによって、「観心」の修行 —- すなわち「自己の生命がー念三千の当体である」と観ずる土台を作っている。生命が健康であってはじめて、永遠の生命を悟る素地ができる。宇宙大の生命を我が身に覚知できるのです。
「病気」とは「人間生命という場の乱れ」とも言える。だから小乗教、権大乗教と、だんだんと生命の乱れを調え、調和させ、鍛えて、最後に法華経によって「不老不死の大生命力」を説いたとも考えられます。
健康こそ宝です。長年、病気に苦しんだ人が言っていた。「よく『忙しくて、くたびれた』と言うが、『忙しくてくたびれる』ことが、どれほど幸せなことか!」と。
だから健康なうちに「福徳」と「智慧」を積めるだけ積んだほうが得です。仏法は智慧です。健康は智慧です。
不惜身命といっても、「無理をする」ということではない。無理は続かない。仏法は道理です。道理にのっとった賢明な信心即生活でなければ反価値になってしまう。それでは「創価」学会とは言えない。
道理の軌道のうえに、年齢や境遇に応じて自分自身の生命力を、どう保持するか、どう強めるか、そのコントロールができなければいけない。自分が自分の生命の「医王」となり「薬王」とならなければいけない。“信心しているから”“幹部だから”自分は大丈夫だというのは「慢心」です。
例えば一般的に言って、四十代までは自分自身の「鍛え」の時代と言えるかもしれない。四十代以降は「保護」の時代に入ってくる。それを賢明に考えて、疲れをためないようにしなければならない。

須田: 疲れをとるには、なんと言っても、よく眠ることですね。

名誉会長: そうだね。「眠り」は、一種の「小さな死」です。大宇宙の生命の海に、いったん心身を浸す作業です。その休息によって、生命力が充電され、次の日への新しい活力を得る。それと同じように、「死」も生命力の充電です。老いたり、病気になった体は、いったん宇宙生命の「蘇生の海」に帰って、さっぱりとして、新しい元気な体になったほうが良い場合がある。
これは、その人の信心の状態、宿業などによって、いちがいには言えない。
ただ言えることは、「薬王菩薩の信心」をやり通した人は、必ず、次はもっと福々しい生命で、生まれたいところに生まれてこられるということです。

斉藤: 薬王菩薩の過去世の一切衆生喜見菩薩も、命を燃やし尽くした後、王家に生まれました。

名誉会長: 要は「死」の時に、大宇宙のどこに、何界に溶けこんでいくかです。「仏界」に溶けこんでいけば、何歳で死んでも「永遠の大生命」を得た人と言える。「寿量品」を身で読んだ人です。「不老不死」の境涯に連なっている。
どんなに長生きしても、最後が三悪道・四悪趣であれば、はかない人生です。永遠の生命から見れば、五十年や七十年の違いなど「瞬時」とすら言えない。
釈尊も言っている。「不死の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている」(中村元訳、前掲書)。
三世の生命から見るならば「不死の境地」すなわち「仏界」「信心」というものを今世で、どこまで確立できたか —- それが真に「長寿であったかいなか」の尺度と言える。
遠藤: そう思います。かりに短命であっても、信心さえあれば、すぐに生まれてこられるわけですから —- 。