師弟不二ARCHIVE

法華経の智慧336

投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月17日(土)21時25分48秒   通報
■ 本当の「仏」はどこにいるか

名誉会長: ともかく「広宣流布に働いている人」を尊敬することです。
どんな気どった有名人よりも、庶民まる出しで、わき目もふらず、広布に働いている人が尊貴なんです。何千万倍も尊貴です。
格好ではありません。地位ではない。学歴ではない。
「不幸な人を幸福にしていこう!」「広宣流布をやっていこう!」
その「心」の強さが尊いのです。「心」は「心法」であり「法」です。宇宙も「妙法」の当体です。宇宙全体が「妙法」という大生命だ。
わが「心法」を「妙法広宣流布」に向け、その一点に帰命していくとき、色心ともに妙法と一体の自分になっていくのです。広い意味で、「人法一箇」の軌道に入っていく。

斉藤: 「妙法」の軌道といっても、具体的には「広宣流布」の軌道ということですね。

名誉会長: もっと具体的に言えば、広宣流布をしているのは創価学会だけなのだから、「学会活動」の軌道ということです。
広布の組織で、本当に苦労している人が、「人法一箇」の軌道に入っているのです。
冒頭の話にもあったが、社会で懸命に働いて疲れているのに、法のため、世のため、人のために、我が身に鞭うって行動している。尊いです。「外用」は、それぞれ会社員であるとか、主婦であるとか、いろいろです。しかし、その「内証」の資格は「地涌の菩薩」なのです。地涌の菩薩であるということは、「仏」だということです。
「仏」と言つても、他には絶対にないのです。この一点が皆、なかなか、わからない。

斉藤: 今、お話ししていただいたなかに、私は法華経の「文底」の仏法の素晴らしい特長が示されているような気がするのです。それは、ひとつには「如来とは一切衆生なり寿量品の如し」(「御義口伝」「神力品八箇の大事」の第一から。御書p770)と言われる。“一切衆生こそが如来なのだ”という観点です。これは「文上」の寿量品では、はっきりとは示されていません。
もうひとつは、内なる仏界の生命を原点として、九界の現実の中へ飛びこんでいく —- そういう「従果向因(果=仏界より、因=九界へ向かう)」の仏法が可能になったことです。

須田: それまでの仏教は、ひたすら成仏を目指して進む「従因至果(因=九界より、果=仏界へ向かう)」の仏法でした。これでは、どうしても「まず自分が仏になることが先決」ということで、社会の変革に“打って出る”という勢いは、なかなか出てきません。

遠藤: 実際の歴史のうえでも、仏教は「静的」で「消極的」な傾向をぬぐえなかったと思います。

名誉会長: 「従因至果の仏法」というのは、わかりやすく譬えれば、「自分が大金持ちになったら、皆を助けてあげましよう」「自分が博士になったら、皆に教えてあげましよう」という仏法です。しかし、いつになったら、その日が来るのかわからない。本当に来るのかどうかもわからない(笑い)。これに対し、「従果向因の仏法」というのは、「最高の福徳」と「最高の智慧」を、ただちに相手に与えるのです。

遠藤: 南無妙法蓮華経に全部、含まれている —- ということですね。

名誉会長: 含まれている。“種子”だから。大聖人は「福智共に無量なり所謂南無妙法蓮華経福智の二法なり」(御書p792)と仰せです。

須田: 「文底」の仏法は、それまでと全然、違いますね。

名誉会長: 全然、違う。その違いは、ほかにも、さまざまな観点から言えるが、今、教学部長が挙げた二点は大切です。もちろん、この二つは裏表の関係にあるわけだが。