投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年10月 8日(木)11時01分51秒 通報
グリグリは、日蓮教学を研究する学者でもなければ専門家でもありません。
どこにでもいる一人の人間であり、普通の学会員であり、いち信仰者です。
そんなグリグリが、二十代の青年部時代、第二次宗門問題をきっかけとして、
「人間・日蓮大聖人」を問い続けてきました。その作業は今現在もまったく変わりません。
御書を真剣に学んでいくと、宗門に伝わる日蓮伝説と、大聖人が述べられていることに
大きな食い違いがあることに気付きます。
今は草創期の昔とは違い、幸いなことに膨大な数の御書解説書や御書講義録に囲まれて私たちは生きています。
日蓮仏法を世界に弘通した池田先生の一人の弟子として、御書を読もうとし、大聖人の真実を知ろうと思うならば、
それがたとえ学会出版の御書講義録や御書解説書だったとしても、無批判の世界に沈んでいることはできない。
しかしそれには、大聖人の真実を探る真摯な姿勢と営みが絶対不可欠となります。
宗門人との対論の実践で、問い、問われ、問い、問われ――。
こうした積み重ねの中で、日蓮仏法の思想は自分の中に肉化していったと思います。
人間・日蓮大聖人像を問い続けることは、自分自身の思想を点検することにもつながるし、
自分自身の視点と姿勢が問われることにもなります。
当然ですが、グリグリの所感を閲覧者に押し付けようとは思いません。
むしろ、グリグリの所感に異を唱え、閲覧者が新しい観点を見出してくれるとしたら
なおのこと、日蓮大聖人像はさらに進歩すると思います。
それが日蓮教学を共に学ぶ信仰者の態度だと思います。
これからも、何でも話合い、共に学んでいきましょう。
ps
人師・論師よりも「経文を先とする」大聖人の思想から言えば、
本文は
「玉をまいらせて地獄へゆくと申すこと、これか」(p1561)です。
「地獄へゆく(行く)」とあります。「地獄へ堕ちた」とは表現していない。
それなのにどうして「堕ちた」と解釈するのですか。逆にそれがわかりません。
講義録の通解には「地獄へ堕ちた」と解説していますが、それは正しい通解とはいえません。まちがいです。