師弟不二ARCHIVE

法華経の智慧283

投稿者:まなこ 投稿日:2015年 9月30日(水)06時31分53秒   通報
■ 民主主義の「内実」をつくる戦い

名誉会長: 国土世間をも変えていくのが広宣流布です。事の一念三千です。ともあれ、一人から一人へ、また一人から一人へ —- 五十展転は最高に民主的な対話の軌道です。
民主主義は、形式だけ、制度だけを整えればいいかと言うと、断じてそうではない。「内実」がなければ、からっぼの箱のようなものだ。すぐに、つぶれてしまう。
「内実」とは何か。個人の自立であり、向上であり、個人の幸福です。
「一人の人間」を、どう生き生きと躍動させていくか。その「個人の尊厳」への努力なくしでは民主主義は形骸化する。

遠藤: 今の日本が、まさにそうです。

名誉会長: 民衆の「心」が空虚で、からっぽであれば、民主主義の危機です。
そこに「権力の魔性」は、つけこむ。国家主義が黒い影を広げ始める。
戸田先生は「個人の幸福と社会の繁栄が一致しなければいけない」と言われたが、個人の幸福をなおざりにして、「社会の繁栄」だけを追ったところに、大きな失敗がある。
個人の幸福と言っても、利己主義の幸福ではない。「自他ともに智慧と慈悲をもっていくという真の「人間の確立」です。
多くの社会主義国、また自由主義国も含めて世界的課題であるが、法華経こそが「個人の幸福」と「社会の繁栄」をともに実現していく力をもっているのです。それが「事の一念三千」です。要するに、一人の人を幸福にしたいと祈り、語っている、私どもの行動こそ、最高の民主的行動であり、民主社会の「内実」をつくっているのです。
「歓喜」から「歓喜」への展転です。いくら展転し、広がっても歓喜は減ることがない。だれひとり犠牲にしない。すべての人に幸福を満喫させながらの広布の展開です。
「今日もまた 明日もまた……と学会歌を歌いながら、あの道、この道を歩きに歩きながら、正法を弘めてきた。苦しい時も、つらい時も、くやし涙にくれる時も、学会歌を歌えば勇気が出た。そうやって君たちの先輩は「二十世紀の奇跡」と言われる妙法広宣流布をやってきたのです。
■ 威風堂々と、王者の道を

斉藤: 「威風堂々の歌」には、学会員のだれもが、何らかの思い出をもっていますね。
それほど全国津々浦々で歌われてきました。

遠藤: “戦後最大のヒット曲”と言う人もいます(笑い)

須田: 以前、作詞者の大橋幸栄さんについて、池田先生は語ってくださいました。
先生は「この歌が厳しい環境の中、京都の皆さまの“前進の息吹”の中から誕生したことは、素晴らしい広布の歴史である」と紹介してくださいました。
大橋さんはもう亡くなられているので、京都の方に話を聞いてみました。歌を作ったのは、入信してまもないころで昭和三十年か三十一年の時です。大橋さんは、傘問屋を営んでいましたが、取引先の倒産で、多額の負債を抱え、生活苦のドン底のなかで、この仏法の話を聞きました。紹介者が言いました。
「この信心はすごいで。三カ月、やってみなはれ。必ず結果が出る。もし出んかったら、おれの首やるわ」「そんな首、ほしない。金がほしいんや」「いくらほしい」「三万円」
踏み倒された額でした。紹介者は、すかさず言いました。
「よし分かった。絶対、取り返せる。その代わり、三カ月間、勤行と座談会を欠かさないで、おれについて折伏すること」

遠藤: 確信ですね。大確信が折伏の命ですね。

須田: そして、一緒に弘教に歩きまわり、三カ月たたないうちに、夜逃げしていた取り引き相手が帰ってきて、三万円を返してくれたのです。確信をつかんだ大橋さんは、ますます弘教に走ります。この頃、他の地区では「地区の歌」が作られていました。ところが京都地区には地区歌がない。皆、寂しい思いをした。
そのことを大橋さんが先輩に訴えたら、先輩はその場でエンピツと紙を出し、“じや、自分で作れ”と(笑い)。作詞の経験など全くありませんでしたが、情熱はありました。店の小さな机の前で、立ったまま考えました。「威風堂々」 —- 。このテーマが決まると、不思議なくらいエンピツが動きました。「たとえ今、身が落ちぶれていようとも、広宣流布の出陣をするんや、威風堂々と……」。
曲も見ようみまねで作りました。歌うたびに曲がかわり(笑い)、“完成”まで一カ月かかりました。
「濁悪の此の世行く 学会の
行く手を阻むは 何奴なるぞ
威風堂々と 信行たてて
進む我らの 確信ここに」
テープレコーダーもない時代です。「ええ歌やなあ」と、口から口ヘ、この歌は伝えられていきました。京都支部結成と同時に、支部歌になりました。そして、この歌を高らかに歌いながら、京都支部は日本一の折伏の結果を出しています。日本中の人が驚きました。

名誉会長: 私も京都でこの歌を聞きました。歌も素晴らしかったが、この歌を歌いながら、千年の古都で法旗を掲げた京都の同志の意気込みが素晴らしかった。すぐに、全国の学会員の歌にしようと思いました。

須田: そのことは今も京都の方たちの誇りになっています。
先生は「これはいい歌だ。これからはみんなで歌おう」と提案され、歌詞に手を入れてくださいました。当初、三番の最初の一行は「我ら住む平安の 洛土見ん」だった。それを先生がさっと「我ら住む日本の 楽土見ん」に変えられた。「ぱあっと一気に境涯が開ける思いだった」と言います。それから全国に広まるのは本当に早かった。
大橋さん自身も、暮らしが好転。手持き友禅で色をつける仕事が成功し、何不自由ない生活となり、“大橋御殿”と呼ばれる邸宅に住んで、毎年のように海外旅行ができる境遇になりました。
先生が京都の会合で大橋さんを紹介された時(一九八九年)、大橋さんは末期ガンで入院していました。先輩幹部が会合の模様を伝えようと、急いで病室を訪れました。大橋さんは話を聞いて、本当に、うれしそうにうなずいていたそうです。それからほどなく六十九歳の使命の人生を終えられ、霊山へと旅立っていかれました。
生前の大橋さんは、“対話の名人”“個人指導の達人”と呼ばれていました。
だれが行っても立ち上がらない人も、大橋さんの話だけは聞いたといいます。逝去前のある日のことです。大橋さんは、病床で見舞いの人に言いました。
「おれね。もっとしたいことがあるんや」
「なんやの。また海外旅行したいの」
「いいや、それはな、家庭訪問や。家庭訪問したい。みんなと、もういっペん一緒に学会活動したいんや」
まさに、大橋さんの人生は、「威風堂々の歌」の通り、庶民の王者の一生だったと思います。

斉藤: 「学会活動したいんや」 —- まさに実感ですね。
学会活動こそ最高の「今生人界の思い出」(御書p467)だと思います。

須田: 本当に楽しいですからね。