師弟不二ARCHIVE

法華経の智慧279

投稿者:まなこ 投稿日:2015年 9月28日(月)17時42分33秒   通報
■ 必ず「所願満足」に!

名誉会長: 「長寿にして」とは「妙法の大生命をもって生き抜く」ということです。
「師子吼」とは、「師」とは師匠、「子」とは弟子。師とともに叫びきっていくという師弟不二です。これが本来の折伏です。
私は「戸田先生は末法の折伏の師匠である。私はその弟子である。ならば折伏ができないはずがない」と決めた。その一念で、だれ人にもまさる弘教をなしとげたのです。
「畏るる所無し」です。恐れてはならない。恐れもなければ、グチも嘆きもない。晴れやかな「強気の信心」でいくのです。そこにこそ妙法の無限の功力が噴出してくる。
私は、あらゆる迫害に耐え、あらゆる障害を乗り越えて、正法を弘め、学会を守った。ゆえに御本尊から偉大な功徳を頂戴した。同じ御本尊を拝んでいても、こちらの信心が弱ければ、こみあげてくる真の「大歓喜」は味わえない。信心次第で、功徳が違ってくる。一人一人、千差万別の功徳です。これを「分別功徳」というのです。
また、それぞれの信心、境遇、宿命などによって、功徳の現れ方は違うが、信心を貫けば、必ず最後には「所願満足」となる。これが「分別功徳」の深義です。
たとえば、事故は絶対にあっではならないが、かりに不慮の事故等で亡くなった場合にも、「信心」さえ燃えていれば、「須臾の間に」(御書p574)-すぐに-また広宣流布の陣列に戻ってこられる。「悪知識」に染まれば地獄に堕ちるが、「悪象」に殺されても地獄には堕ちないと、経文にも御書にも仰せです。「悪象に殺される」とは、今で言えば交通事故などの不慮の事故です。
いわんや、広宣流布の活動の途上で亡くなった方が、大果報を受けないはずがない。「転重軽受法門」(御書p1000)にも、そう仰せです。いわば殉教です。人間として最高に尊貴なる死なのです。
■ 学会同志の荘厳な生死

斉藤: 先ほど、「星の死に方も、さまざまである」というお話がありましたが、人間の死に方もさまざまです。これは、白樺会の書記長(現、委員長)の小島明子さんから聞いた話です。よく「本人の生前の死生観が大切」と言いますが、臨終の時は理屈や知識だけでは全く役に立たないそうです。
貪・瞋・癡の三毒が噴き上げてくるような厳しさの中で、「本当に心の底から安定していないと乗り越えられるものではありません」と語っておられました。地位や財産が関係ないのは当然ですが、学会の世界にあっても、役職は関係ない。自分は幹部だから大丈夫などと無理して痛みをつくろっても、臨終の苦悩はごまかすことができない、と。

遠藤: ある壮年の方の体験ですが、訪れて来る人を最後まで励まし続けて亡くなるんですね。もう、これで最期だという時に、看病していた奥さんが泣き出す。そうしたら、ご主人が“泣くんじゃない”と、かえって励ましたそうです。
看護婦さんたちにも、「もうこれで自分は最期だと思います。お世話になった他の看護婦の皆さんにも『ありがとうごぎいました』とお伝えください」とあいさつをされた。
そして、最後まで奥さんを励まして亡くなっていかれたそうです。

須田: 私も、「看護婦さんたちから、『マシュマロのような存在だった』と言われた」婦人部の万の話を聞きました。なぜ、マシュマロかというと、その人を看病した誰もが、まろやかなマシュマロにフワフワと抱っこされるような気持ちになるからだというのです(笑い)。人を思いやる温かさに満ちあふれていた方でした。亡くなる最期まで、豊かな気持ちで周りを包んでいたそうです。

名誉会長: 菩薩です。いな仏の生命です。自分の境涯革命はおろか、他人の境涯まで高めながら亡くなられている。

斉藤: 分別功徳品は「如来の寿命の長さを知る功徳」すなわち「永遠の生命を知る功徳」が説かれています。それはまさに、こうした人たちの臨終の姿にあらわれているのではないでしょうか。

名誉会長: そうです。現実を離れた観念の話ではない。
私ども無名の庶民が力強く、「生も充実、死も充実」と胸を張って、どこまでも前向きに、真剣に生きていく。その大生命力を与えるために仏法は説かれたのです。
分別功徳品には、こうある。「精進勇猛にして、諸の善法を摂し、利根智慧にして、善く問難に答えん」(法華経p526)(精進すること勇猛にして、多くの善なる法を学び、機根と智慧にすぐれ、難しい問いにも、巧みに答えるであろ)
これこそ、我が同志の姿ではないだろうか。勇猛精進です。

須田: そう思います。
■ 最後まで「戦う人生」

須田: 先ほどの小島さんが、どうしても忘れられない患者さんがいたと語っていました。壮年部一員で、ガンで亡くなったのですが、どんなに重度になっても、最後まで「戦う人生」を忘れなかったというのです。
一つ一つの治療の時も、どんなに辛い時も、しつかり戦っていく姿勢は崩れなかった。医者や看護婦さんに、「きょうは、こうです」と容体を適切に話し、治療方法を相談し合いながら、可能性のある限り戦った。小島さんが一番印象的だったのは「目」です。剣豪のような目であったといいます。一度、元気になって退院し、再発して入院しますが、その時も戦いにいどむ「剣豪の目」は変わらない。小島さんは、「肉体が蝕まれていても命そのものは燃えている」と感じたそうです。

名誉会長: 最後まで生きて生き抜くことが、「永遠の生命を知った」証です。
「永遠の生命」と言っても、目に見えるわけではない。しかし、永遠の生命を「信ずる」ことはできます。

斉藤: 法華経では「信」が重要であることが何度も強調されています。

名誉会長: 信ずるということは、全生命を、その法にかけていくということです。「行動即信心」です。折伏がそうです。友への励ましがそうです。妙法を伝えきっていく戦いが、今世の生命を鍛えるのです。そして、その鍛え抜かれた生命が、三世の軌道を自在に飛翔できるようになる。三世にわたる永遠の自由を、知らず知らずのうちに、我が生命に会得する。
ロケットが宇宙を飛んでいけるように、生命に無尽蔵のエネルギーを貯蔵していく。獅子王の「大生命力の自分」になれる。それが如来寿量品の功徳です。

斉藤: 分別功徳品で説かれる「無生法忍」の功徳を思い出します。
「無生法忍」とは、先ほどの「不退地」の功徳と同じとされますが、「無生」とは、生もなく死もない、すなわち常住の生命を確信する境涯です。「忍」とは「認」の意味で、一切の諸法(現象)が「無生(不生不滅)」であることを認めることです。

名誉会長: 我が身が「永遠の仏」と一体である。仏とは、この我が生命のことである —- この大確信があれば、断じて行き詰まりはありません。
苦しみを乗り越え、悲しみを乗り越え、惰性を乗り越えて、無限に前進できます。悠々たる「不退地」です。

遠藤: それが仏法の楽観主義ですね。

名誉会長: 仏法の楽観主義は「なんとかなるだろう」というような“現実逃避の楽観主義”ではない。むしろ悪は悪として、苦しみは苦しみとして直視する。そして、それと断固、戦う。どんな悪や苦難とも「戦える自分自身」を信ずるのです。
そういう“戦う楽観主義”です。
楽観主義と言えば、“アメリカの良心”といわれたノーマン・カズンズ氏の、あの笑顔が浮かんでくる。亡くなられました。氏は、仏法者ではなかったが、人間の力を信ずることにおいては仏法者と同じであった。氏はこう言われています。
「誰でも死を恐れなくてもいい。ただ一つ恐れなくてはならないのは、自分の持つ最大の力を知らずに死ぬことである。それは自分の命を他人のために捧げる自由意志の力である。我々の力で他人の内部の何かが蘇えったら、その時我々は不死に近づいたのである」(『人間の選択』松田銑訳、角川選書)
他人の幸福のために、自分を捧げていく。自由意志で、「菩薩の戦い」に打って出る。その時に、我が生命に「不死」の大生命力が湧現してくる。仏の「永遠の生命」が満ち潮のように、生命を浸してくる。生活だって、よくならないわけがない。その意味で、唱題できることが、弘教できることが、広宣流布に働けること自体が、最高の「功徳」なのです。
「南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」(御書p1143)です。
「広宣流布に生き抜く人生こそ最高だ」と、明らかに分別していく —- そう覚悟していく智慧を、分別功徳品は教えているのです。