師弟不二ARCHIVE

法華経の智慧160

投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月 8日(土)07時24分20秒     通報
■ “仏陀観”の大転換

須田: 弥勒の質問は、大変に率直な問いですね(笑い)。弟子たちの心の大きな動揺を浮き彫りにしています。

名誉会長: 大聖人は、「此の疑・第一の疑なるべし」(御書 p213)「仏・此の疑を晴させ給はずば一代の聖教は泡沫にどうじ一切衆生は疑網にかかるべし」(同)と述べられている。(「仏がこの疑問を晴らされないならば、仏の一生の教えはアブクと同じであり、一切衆生は疑いの網にからまってしまうであろう」)。いわば一切衆生の成仏がかかった根本的な疑問です。

須田: その驚きの内容ですが、まず、地涌の菩薩という、弥勒菩薩ですら見たことも聞いたこともない無量無数の菩薩たちが、涌出品で突如として大地の底から踊り出たということです。

遠藤: 地涌の菩薩は、一般に“六万恒河沙の菩薩”と言われますが、それにとどまりませんね。眷属等を含めれば、まさに「無量無辺にして、算数譬喩も知ること能わざる所なり」(法華経 p475)です。人間の思議をはるかに超えています。

斉藤: しかも、その姿は、あろうことか、師である釈尊よりも立派です。にもかかわらず、釈尊に挨拶する彼らの態度は、じつに謙虚で恭々しい。師への尊敬の心に、満ち満ちている。

遠藤: その点、迹化の菩薩たちは師匠に対して、まだまだ尊敬の心が足りなかったのかもしれません。“馴れなれしい”といっては言い過ぎでしょうが —- 。

名誉会長: 弥勒は、釈尊の過去世の修行も知っている。また、法華経迹門で明かされた、万人が成仏できるという道理も熟知している大賢者です。その弥勒が、自分のそれまで信じていたことを根底から打ち破られた。これほどの無量の大菩薩に礼拝されている釈尊とは何者なのか。
地涌という不思議なる「久遠の弟子」の姿を目の当たりにしたことによって、“師匠の真実は何か” “師の本当の境涯は何か”という問いにつながっていった。地涌の出現が人人に“仏陀観の大転換”を迫ったのです。

斉藤: 「自分たちの考えていた世尊ではなかった。もっともっと偉大な仏様かもしれない。自分たちは師の本当の偉大さを知っていたのだろうか」と —- 。

名誉会長: そう。「雖近而不見」(近しと雖も而も見えざらしむ=寿量品)です。少なくとも、弥勒はそのことに気づいた。それはやがて、偉大なる釈尊の弟子である自己自身への問いにつながっていったはずです。「この尊大なる世尊とともに生きる、自分とは何なのか」 —- と。
人間が、自らの根源具わる栄光へと誘われていく。それが、光輝満つ本門の展開なのです。無量無数の地涌の菩薩を呼び出すという壮大な説法によって、万人を偉大なる自己へと導いていくのが涌出品なのです。

須田: 弟子たちが陸続と立ち上がった。あまりにも立派な姿であった。「弟子がこれほどすごいのか!それならば師匠とは、どれほどすごい方か」と。これこそ真の師弟の関係だと思います。