師弟不二ARCHIVE

法華経の智慧66

投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月 4日(土)12時49分36秒     通報
■ 法華経の「信」 —- 以信代慧

須田: 話題が法華経に戻りますが、法華経に説かれる「信」には、「信解(アディムクティ)」のほかに、サンスクリットで「シユラッダー」と言われる「信」があります。
「シユラッダー」の「ダー」は「置く」という意味の語に由来するとされ、「シユラッダー」は「信を置く」「信を起こす」という意味になります。そこで、仏道修行の最初に位置づけられるのです。仏典よりも古い時代の『ヴエーダ』などでは「好奇心をもつこと」「焦がれ求めること」という意味で用いられています。
宗教的な感情の源泉として“おどろき”があるとされますが、“おどろき”がもつ、対象への畏怖や好奇心などの心情が「シエラッダー」の意味合いとしてあります。自身にとって思議の及ばないものへの“敬虔(けいけん)な心”です。この“敬虔な心”をもてずに欲望に駆られているのが「イッチャンティカ」すなわち「一闡提」です。

斉藤: この「シエラッダー」の信を起こし、仏道修行していくと、その不可思議であったものを体得する智慧が磨かれ、悟りと功徳へと進むわけです。

遠藤: ですから華厳経では、「シュラッダー」の信を「道の元」「功徳の母」と位置づけています。また法華経で説かれる「以信得入」(信を以て入ることを得たり)の信もこの「シエラッダー」です。御書には「信を以て源とす」(日女御前御返事p1244)とあります。

名誉会長: 仏法の「信」とは、理性を振り捨てて盲目的に帰依するというような「狂信」では決してない。敬虔な探求心を出発点として智慧を育んでいこうとする、理性的な精神の営みなのです。

斉藤: また仏法では「信」を表す言葉に「プラサーダ」という語もあります。これは、水や声などに濁りがなく澄み渡り、輝き渡っているさまを表す言葉です。仏法を聞いて迷いがなくなり、心が浄らかで澄みわたった状態をいい、「浄信」と漢訳されます。
この「浄信」の完成された状態は、どのようなできごとにも心が乱れずに平安を保ち、生きとし生けるものが平等であり尊厳であることを知る境地とされます。

名誉会長: そう。正しき「信」の効用は、心を洗い、清らかにすることです。心が清らかであってこそ智慧は輝く。
知性について“情念の奴隷”と考え、情念の汚染から知性を解放したいと考えた哲学者もいました。また、アウグスティメス(キリスト教の初期の哲学者)のように、「病める理性」を信仰によって癒し、強化すべきであると主張した人もいました。
それぞれの立論には違いがあるが、理性は決して自己満足という傲慢に陥ってはならないことを教えている点では共通しています。
限りなく、現在の自己を超越していく —- そこに真の理性の渇仰がある。自己の届き得ぬ高みにまで、向上し、超え続けようとする。そのエネルギーとなり、基盤となるのが、現在の自己を超えた何かへの「信」なのです。信が知を清め、強め、高めるのです。
「浄信」は磨き抜かれた「信」であり、同時に鍛え抜かれた「知」なのです。
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信解品から
我等今者(いま) 真に是れ声聞なり 仏道の声を以って 一切をして聞かしむべし(法華経p275)

我らは今、真に声聞である。仏道の声を一切衆生に聞かせていこう。
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須田: 法華経の方便品では、舎利弗が釈尊に対して“信じますので教えてください”と請う時に「シユラッデー」と「プラサーダ」の両面の「信」をもって信ずることを誓っています。漢訳では「敬信」と訳されています。

遠藤: これまで見た三つの「信」をまとめてみると次のようになるでしょう。
—- 仏法を聞き、その素晴らしさに畏敬の念を抱いて「シユラッダー(敬信)」を起こして実践に入り、「アディムクティ(信解)」を貫くことによって、心が鍛え磨かれ、だれもが平等に尊厳であると覚知する「プラサーダ(浄信)」という大境涯の完成に向かう —- 。

名誉会長: 仏法の「信」は、「限りなき向上」へのエンジンです。知性を含めた全生命を向上させ、開花させ、秘めた力を発揮させていく原動力です。

須田: ところで、これらの信とは異質な「信」があります。それは「バクティ」と呼ばれる信です。これは、神に対する絶対的な熱烈な信です。
語源的には「わかち持つこと」「一部となること」という意味合いがあります。
例えば“万物の根源であり宇宙に遍満しているブラフマン(梵)と一体になる”など、自身を超越した神秘的なものとの一体化を目指し、自分らしさを殺してまでも献身的な信仰実践に突き進むものです。
神々への絶対的な信仰を示すものとして、インドでは、しばしばこの「バクティ」という語が使われますが、仏教ではほとんど用いられません。「バクティ」という信は、仏法の信の在り方とは違うものです。

名誉会長: そうです。自分をなくして、大きなものに飲み込まれるのではない。
我が生命こそ無限の宝蔵である。我が身そのものが功徳聚である。我が身が法華経である。ゆえに、崩れざる幸せは、外からやってくるのではない。すべて我が内なる生命から馥郁と薫り出してくるのです。
仏法の信は、本当の自分の確立です。そして、宇宙大の無限の地平が自分自身の生命に開かれていることに気付くことです。
宇宙に対して生命を開き、宇宙に包まれている自分が、宇宙を包み返すのです。大宇宙と交流し、交響するのです。信は、その跳躍のためのジャンプ台です。

遠藤: 法華経が仏教一般の立場よりもさらに踏み込んで信を強調している理由をどのように考えるべきかということですが —- 。

斉藤: 法華経においては釈尊の説法が開始された方便品で、すでに信が繰り返し強調されています。それは諸法実相・十如是が説かれた後、舎利弗が釈尊に未聞の法門を説かれるよう要請するところに表れています。釈尊は、その法門を説けば人々は驚き疑うであろうとして舎利弗の要請を三度にわたって制止します。しかし、舎利弗は“会座に連なった大衆は必ずその法を信じてまいります”と誓って、仏の説法を求めます。その熱烈な「信」に応えて、釈尊は一切衆生に仏知見を開き、示し、悟り、入らしめることが、仏が世に出現した目的であることを明かし、開三顕一の法門を本格的に説いていくのです。

名誉会長: 法華経の説法自体が、「信」を大前提にして開始されているわけだね。