投稿者:河内平野 投稿日:2014年10月26日(日)08時55分45秒
自由は幸福である。自由なくして幸福はない。
仏法は幸福をもたらす法である。
ゆえに自由の敵は、幸福の敵であり、仏法の敵である。
宗教は人間のためにある。
人間が宗教のためにあるのではない。
ゆえに「宗教の指導者」とは、《人間のために奉仕する人》の別名である。
ところが、あまりにも多くの場合、宗教の指導者、なかんずく聖職者は、《人間のために奉仕する》どころか、《自分のために人間を奉仕させる》転倒を繰り返してきた。
宗教は本来、人間を内側から解放するものである。
しかし、宗教が硬直化した権威になり、形骸化するとき、宗教は、外側から人間を縛り、搾取するものへと一変する。
宗教が悪しき権力と結びつき、またみずから権力と化した時の恐ろしさ――。
その一断面が、ケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴの小説『一粒の麦』に描かれている。
かつてアフリカを研究している友が、その抄訳を贈ってくださった。
この作品は人種差別をテーマにした、アフリカ文学を代表する名作である。
ピラミッドを語った折でもあり、アフリカ民衆が近代において味わった苦悩の一端にふれておきたい。
そこには、このような描写がある。
集会で、ある男が「奪い取られた大地」の話をする。
この数百年のアフリカの歴史を象徴した話である。
――俺たちは、白人たちの教会に行った。白いローブをまとった宣教師が聖書を開いて言った。
「ひざまずいて、祈りましょう」と。俺たちがひざまずくと「それでは、目を閉じましょう」と言う。
そのとおりにした。すると、どうだ! やがて俺たちが目を開けると、自分の土地がどこかに消えているじゃないか!
かわりに、ぎらっと光る剣を持った奴らが俺たちを囲んでいたんだ。
しかも、俺たちに、お金や財産を天国に納めろと要求していた宣教師たちは、自分の分だけは、ちゃっかりこの世に残していたのさ! ――。
聖職者の言うとおり、ひざまずき、目をつぶっているうちに、気がつくと、身ぐるみはがされ、奴隷の身におとされていた、と。
アフリカの悲劇を印象的に要約している。
盲従は怖い。無知は不幸をもたらす。
《食いもの》にされる。
民衆の「理知」を抑えつけ、「文化」を嫌い、ただ従え、従わないものは罪人だ、と宗教が強調するとき――その裏には、何らかの意図があることが歴史の常であった。
ゆえに、私はそうした悲劇をいかなる意味でも起こさぬために「英知を磨け」と叫ぶ。訴えに訴える。
【各部代表研修会 平成三年一月十九日(全集七十六巻)】