師弟不二ARCHIVE

4・24を迎えて。代理投稿

投稿者:ダメよ~ ダメダメ 投稿日:2017年 4月24日(月)15時27分50秒   通報 編集済
本日の4・24に際して、元○○○○改革同盟。宮川雄法師のご投稿を代理で投稿させて頂きます。

以下、宮川雄法師記述の記録。少々長い引用ですが宜しくお願い致します。

前半は、以前私が仲路中道と言うペンネームで書いた
「 さらば日顕、さらば大石寺 」ふうに。
後半は時間が無くなり事実を箇条書き致しました。
ただ、全て真実です。

私は身体も健康ですし、思い悩む事柄も有りません。
従って、過労死や病死の心配もありません。
此処に書いた事実は、ある筋の方々には触れられては非常に困る内容だそうです。
顧問弁護士の先生にお話しした所、この前文を書いた方が良いと言うので、冗談で言っているのかと思いましたら、真剣に本気で仰有るので、一応書きますね。

「 私は心身共に健康であり、突然死や自殺など、一切心配ありません。
万が一、私の身に不測の事が起こりましたら、この投稿に関わる事だと、お察し下さい。
又、この投稿は、私が所持する資料のほんの一部であり、
私に何かあった場合、最も信頼するルートで公にされる事をお伝えしておきます。」

何か、バカバカしい文ですが、弁護士さんが、「 あなたは、権力者の恐さを知らない!」と、叱られましたので、仕方なく書きました。

掛かって来るなら来やがれ!
大聖人直系の弟子であり、先生の一番弟子を倒せるものなら、倒して見ろ!( 失礼、高尚な御坊様の言葉とは、思えませぬ )

本 文

「 弟子が師匠を裏切り、今も尚、裏切り続けている4.24 」

2008年(平成 20年).1月22日.
午後8時40分、
戸田国際会館4階会議室.
○○○○会長、
○○理事長.
副会長各氏、
連絡局.儀典局.国際部.教学部各代表と、
△△△△ 改革同盟.
青年僧侶改革同盟
全員による全体会議終了間際。

宮川の声が、会議室の中に響いた。
「 会長 !○○会長、ちょっと質問宜しいでしょうか?」
会長の○○は、金縁のメガネの奥に、持ち前の卑しさと欲に眩んだ、濁りきった目で宮川をみた。宮川の声が続いた。右手には会長の言葉を記録する為か、始動中の小型テープレコーダーが持たれていた。

「 会長!私には未だに理解出来ない疑問点があります。」

又、何を云い出すのであろうかと、信徒団体の大幹部はお互い顔を見合わせる者は居たが、
意を決したような宮川の強い口調に、静止する者は、誰一人としていない。
静まりかえった会議室に、宮川の声だけが響く。「 私は昭和57年に総本山の法主○○の奥番をやっておりました 」

宮川が、総本山の最高責任者である法主、そして管長である○○猊下の最側近である奥番をしていた事は、総本山と対立し、言わば、巨大信徒団体と戦争状態になった平成2年頃から、巨大信徒団体にとっては、敵のボスの内実を知る僧侶の、総本山離山との事でテレビのニュースにもなり、最初の離山が七人だった事から、

「 七人のサムライ僧侶、総本山の理不尽な信徒虐めに抗議して総本山から離山 」などと話題になり、平成4年2月4日の記者会見には、マスコミ、報道関係各社50社以上が集まった。

「 会長 、私は昭和57年の5月、夕食後、日△と散歩をした際に、日△に次の様に質問した事がありました。

「猊下、3年前の昭和54年4月24日に池田先生は、会長を勇退され名誉会長になり、
総本山でも法華講総講頭から、名誉総講頭になりました。総講頭と名誉総講頭、どこが、どの様に違うのでしょうか? 」と。

日△は、自慢げに、

「それはだなぁ、名誉が付くと、ひな壇の雛だ。飾りだ。何の権限もないんだ」と。

私は、日△に、「そうなんですか。それならば池田先生をもう一度、総講頭に再任されるべきだと思います」と言いました。

日△は、ムッとした表情で、私の進言には答えませんでしたが、その2年後の昭和59年1月2日、池田先生の56歳の誕生日に一切権限を持たない名誉総講頭から、実権を伴った総講頭に再任しました。学会の方では、先生をもう一度、会長に、と言う声は無かったのでしょうか? 」

会長は、立ち上がり憮然とした表情で、

「 池田先生に、おかれては、自分が会長であるとか、名誉会長であるとか言うことには全く執着していないのであります!私は、弟子として、先生に、会長になってもらうとか、願うとか言う気は、さらさら無いのであります 」と、声を震わせながら会長は答えた。

何に怒っているのか、腫れ物にでも、触れられた様な態度に、只ならぬものを感じた。
会長腰巾着の副会長が先導して、一斉に拍手が起こり、会長は、取り巻きと共に座を立ちました。

その日の夜、私は長野県の青年部同志と会い、先程の、会長とのやり取りの録音テープを検証していました。
そこに、庶務局の次長から携帯に電話が入り、「 宮川さん、何であんな質問したんですか!」と。前々から思っていた疑問だったから、と答えると、「 だったら、会長にだけ、直接聞けばいいじゃないですか!何で皆んないる所で、聞くの!?」と、今にも泣き出しそうな声で言ってきました。

ああ、先生の会長辞任には、何か大きな暗い闇があるのだな、と、長野県の青年と話しました。
池田先生が、名誉総講頭から総講頭に復帰され、総本山での一切の行事に、居士衣( 背広の上から着る衣 )の着用を許されて、行事に参加されるようになり、法華講の委員長より上座に着座されるようになりました。

昭和59年春、私は既に日△猊下の奥番は退任していましたが、個人的に日△猊下に目通りをして、池田先生の総講頭復帰の御礼を申し上げました。

日△猊下は、気分屋で瞬間湯沸し器とアダ名される程、感情の起伏が激しく、お目通り( 法主と会見する事 )の願い出の際に、懇意にしていた住職達は、奥番である私に連絡をしてきて、法主の、その日、その時の、機嫌の良し悪しを聞いてから、目通りを決めるのでした。

私が御礼の為にお目通りした日は機嫌が良くて、
私に「 ○○学会の方でも池田さんは会長に復帰されたのか?」と聞かれ、私が未だその話は聞いてません、と答えると「 池田さんは、厳しいからな。池田さんがいると、下の者たちが、金集めが出来んから、飾りにしておきたいんだろう 」と言う様な事を言ったのを覚えています。

総本山が名誉総講頭から総講頭に再任したのだから、当然、信徒団体でもその声があがり、総本山が池田先生を総講頭に再任した年、先生の御次男・池田城久氏が当時の会長のにその事を打診したと聞いています。

○○学会の会長職は初代も二代も終身制てあり、亡くなるまで会長をつとめられました。二代会長の戸田会長も、「 第三代会長を守れば広宣流布は出来る。」と公言されており、池田先生に対して、内々に「 お前は、死ぬまで会長として学会を守れ!」と仰ったと聞いています。

先生は、総本山との戦の中で内部の策謀にも心を痛められ「私が会長を辞めれば収まるんだな」とおっしゃったと。

誰一人、会長辞任を留める所か、辞任要望書なる署名まで集め、先生を追い詰めた輩が、今も本部の中枢にいると、元先生の側近で、無実のデッチ上げで除名処分になった最高幹部が言っていました。

四代会長に先生より年上の○○さんが会長になり、その際先生は、一時お前に預ける( 会長職を )と仰ったとのこと。

これは、先生の側近で会を除名になった別の方からの情報です。

偉大な広宣流布の頭領たる先生を会長から引きずり下ろす罪は深く、我が師匠に宮崎の大寺院にて土下座させた総本山の首謀者.細井日達は、三カ月後の同年、54年7月、入院はしていたものの、前日の夜まで元気だったが富士の宮の病院で急死。

更にその2年後昭和56年の同じ7月、会長を先生にと言った四代会長が自宅で急死。
山友の、「 絶対に池田を会長に復帰させるな!宗門迄巻き込んで手に入れた会長職だ 」との言いつけを守り、先生を蚊帳の外、ひな壇の雛に祭り上げ、五代会長からは、会長希望者が多い為、終身制ではなく、五年任期制へ会則を変更。

総本山が先生を総講頭に再任した昭和59年は未だ、五代会長就任3年であるとの理由で却下。
その年の10月に先生をもう一度会長に、と、進言された池田城久氏が胃穿孔で急死。

医療技術は進んだ現在、耐えられない激痛を伴う胃穿孔で亡くなる事は考えられないとの医師数人の言葉。当日、先生御夫妻は和歌山県白浜町にて、要人を迎える為に不在。
五代会長は腸閉塞で入院。理事長も捻挫で動けず。
詳細に綴られた記録によると、胃痛を訴える城久さんを本部車両が乗せて、病院に行かず何故か八王子の大学へ。その後数時間都内を走行し、夕方女医の石川医院へ搬送。
なにをしてたの!と医師より厳しく叱責され、石川信一の名前で帝京病院に搬送。

城久氏死亡。

総本山を通しての確認によれば、名誉会長の御子息が病に倒れては恥だとの、御本人の指示により大学や、都内を回りました。病院に参りましょうとの言葉にも耳を傾ける事なく、耐えておられました。等などのようです。

事件の真相解明のポイントは、起きた事実によって、一番得した人間は誰か、を調べると良く解る、とは、戦時中は特務機関コダマに、所属し、戦後は警察だった父の言である。

仏前には、城久さまの遺影と、
大過去帳にも城久さまの名が認めてある。
又、先生が庭に舞い降りた鶴を、城久だ、城久が帰ってきた、と、飛び去り行く鶴の連続写真数枚の最後の写真を戴いた。

話が逸れてしまったが、2008年1月22日に、先生を名誉会長から会長に、と言ったあと、○○学会のCIA的役目の機関が、私を不穏分子として、調べはじめた、との事。
同年、11月2日に査問。その際に、今年の1月末から尾行などさせて戴いたとのこと。( こういう事をポロッと自慢するあたり青いな、とは父の言 )同日、あらゆる情報源を教えろ!と拒否すると謹慎。

2009年5月まで数回に渡り、情報源を暴露しろ!とか、誰が後ろにいるか教えて下さい。等など、アメとムチ。

それでも、口を割らないので、同年5月から、月に100万円の給与停止。翌年、2010年、平成22年、寺院明け渡す。

同年6月の本部幹部会を最後に、先生は真の弟子何処にか、と本部幹部会に出席されなくなる。
翌年、3月11日.東日本大震災。

2013年、旧ユーゴスラビア、現セルビアの代表が本部幹部会に出席。
その際に、セルビア、マケドニア等のメンバーの、
池田先生をもう一度会長にして下さいとの署名を持参。本部は受け取りを拒否。

歓迎会食の時に、マケドニアの代表が六代会長に署名を受け取ってくれるようお願いする。セルビア語の為通ぜず、口調が強かった為、警備員が彼を排除。

セルビアの理事長( 日本人 )とマケドニアの代表( セルビア人 )の2人の役職が解任される。
帰国後、ヨーロッパの責任者が、セルビア、マケドニアに行き、2人の役職解任を告げ、新しく任命された理事長と代表に付くように説得。殆どのメンバーは従わず。

2015年、10月.セルビアのメンバー26名が、先生へのお手紙を携えて来日。
本部は、一切、受け取らず、追い返される。八王子の大学でも、同じ処遇。
メンバーは、泣きながら、先生がお好きだった五丈原の歌を、離れた場所から日本語で合唱。
本部は、セルビアに対し、御本尊下付停止、援助金停止。
近隣国から、人を集め、新セルビア支部結成!と御用新聞1面に掲載。
20数年まえに、宗門がやったと、ソックリの事をやってる。
よほど、先生に会長に復帰されたら困るのでしょう。

その理由の1つ財務について。

先生は、ある時秋谷を呼んで、
秋谷に「 お前は一体いくら集めれば気がすむんだ!三桁、四桁と言うならばお前がやれ!と。
又「 1人最高十万でいいんじゃないか」又「 財務、財務と言っているそうだが、秋谷お前はいくらしてるんだ!」 秋谷は五口。
又、別の時に先生は婦人部幹部( 元全国婦人部長、宗教病院で癌と診断、一般検査では異常なし、死亡)に、「 私は会員さんに負担をかけたくないんだ。だから、私は本の印税を全て( 財務 )している。何十億です。世界一の、財務の金額です、会員さんに負担をかけないようにお願いします。」その先生の思いは、全て無視。

名誉会長は、予算決算の会議、一切の会議などにも出席出来ない。と言うより、知らせずに勝手に開催、事後報告。

本部鶴山会館の椅子の数が足りず、立って唱題する人が多いので、椅子を御供養したいと言った婦人幹部に対して、先生は
「 有難う。皆んなは、先生は偉くて何でも出来ると思っているけど、名誉会長は、会館の椅子1つ買えないんです」と。

時間の関係で此れでおわります。ともかく、宗門と、世界で一番戦った僧侶は、私です。
宗門と一番戦った信徒は、波田地氏です。一番護った信徒団体から、一番迫害される、これが仏法の原理です。今、私は本当に自由自在の、この上ない幸せの極致です。

誰人にも、必ず訪れる死。色ばし悪しくて笑われたもうなよ。

最後に先生の、和歌を、

桜 梅 薫
桃 李 香

昭和54年5月3日 朝、

牧口竹林にて詠む。
内外の策動により、われ清風の心にて勇退に望む。

共 戦

昭和54年5月3日 夜、
生涯にわたり、われ、広布を、
不動の心にて、決意あり、
真実の同志あるを信じつつ、
合掌。

昭和59年10月3日の先生の和歌。
安らかないまはの 笑顔の知らせきき、
父はたたえむ、 若き王者と。

昭和59年10月3日
午後9時45分、関西文化記念室にて、
城久大兄、 大作。

大難に、
父を守りし、この数年、凱歌の君を、
永遠(とわ)に、忘れじ。

昭和59年10月4日,
池田城久宅 通夜の日、大作。

以上です。